さらかもねどげ

子供の頃、例えば兄弟といつまでもチャンネル争いをしていたりするのに業を煮やした祖父は、容赦ない教育的指導を僕に施したあと、「さらかもねどげ」と必ず言った。激昂した祖父の前で祖母は僕たちをかばおうとするけれど、祖父に押しのけられる。僕はボコボコと殴られ、靴をはく暇もなく真冬の外に追い出される。祖父をなだめる祖母の声を背中に、泣き叫ぶ僕も構わず祖父は容赦なく扉を閉める。閉めた直後、祖父は「さらかもねどげ」と叫ぶのだった。

・・・何のことだか分からなかった。「さらかもねどげ」の意味が、分からなかったのだ。でもそのうち、徐々に推測がついてきた。それは、こんな感じだ。

  • まず、その言葉は僕をかばう祖母に対して言われていることが推測された。僕を外に締め出した後に叫ぶから。
  • ある日、「『さら』とは『まっさら』のさらで、『まったく、ちっとも』という意味合いでは? と思いついた。
  • となると、残りは『かもねどげ』。これなら何とか推測がつく。『かもねどげ』→『かまわねどげ』→『構わないでおけ』
  • つまり「さらかもねどけ=まったく構うな」という意味ではないか。

直接確認する前に祖父は死んでしまったけど、どうやらこれで合っているらしい。

ここでポイントは、同じ国・同じ地域に住んで、生まれた頃から八戸の訛りを習得しているにも関わらず、分からない言葉があるということ。改めて思い返すと、日常生活の中で「おじいさんは何を言っているんだろう?」という疑問にさらされることがたくさんあった。例えば、こんな言葉。

  • 「きっち」 → 浴槽のこと。「きっちいてこ(「きっち」に行ってこい)」=「お風呂に入りなさい」という意味だが、小さい頃の僕は「キッチンに行け」という意味かと勘違いして、洗い場の前で祖父の次の一言を待った。
  • 「じゃんぼ」 →髪の毛のこと。「じゃんぼかてこ(「じゃんぼ」を刈ってこい)」=「髪の毛を切ってきなさい」という意味だが、小さい頃の僕は祖母に困った視線を向けて、通訳をお願いした。ちなみに、八戸で「じゃんぼ」という人はあまり多くないようで、津軽弁でよく用いられる。

そんな風に祖父と僕は時々まったく訳の分からない会話をしながら暮らしていたわけで、今になって考えるとこんなに面白い生活環境は無いよなぁ、と思う。普段の生活自体が異文化との交流になっているのだから、スゴイものだ。でも、孫と上手く話せない祖父のことを考えると、切ない。僕に言葉が通じていない様子を見ながらも、そんな僕を許し続けた祖父を想像すると、祖父に叩かれ外に出された思い出すらあったかくなる。