バスタブの中で

「あのう」と後輩は言った。
「心に穴があいたみたいに淋しくなったことってあります?」
「そりゃあるさ」と僕は答えた。
「そういう時って、どうすればいいんでしょうか?」
「あのなあ、穴があいてるんだか何だか知らないけど、その穴自体をどうにかするんじゃなくて、どうやってそんな気持ちをうっちゃっていくかっていう方が大事なことじゃないのか?」
「そうですよねえ」

僕らは屋上で煙草を吸っていた。

「でも、気持ちにはどうにもならない部分もありますよね?」
「だろうな」
「そこをうっちゃってしまおうっていうのは、ちょっと乱暴じゃないんですか?」
「乱暴な部分がない人間もいないと思うぞ」
「なるほど」

辺りは夜の闇だ。遠くの明かりしか見えない。

「じゃあ、具体的に、うっちゃるっていうのはどういう行為なんですか?」
「うん?」
「いや、だから、具体的にどうすればいいんでしょう?」
「ひとりひとり、違う」
「そりゃそうでしょうけど、先輩はどうなんですか?」
「人に質問する時は、自分の見当を言ってからするもんだ」
「僕はうっちゃれないんです。一度もありません」
「じゃあ言っても無駄だ」
「どうしてですか?」
「骨身にしみてこないだろう、ここで俺が話したとしても」
「骨身にしみなきゃいけないんですか?」
「そうだ」
「そういうものなんですね?」
「ああ」
「じゃあ僕は自分でその方法を見つけ出すしかない、ということですね?」
「そうだ」
「でも先輩はその方法をすでに手に入れていると」
「そう」

僕と後輩は空き缶の中に煙草をねじ込んだ。

「もしですよ」と後輩は言った。
「もし僕がここからいきなり飛び降りたらどうします?」
「うん?」
「いや、だから、ここで飛び降りたらどうします? 間違いなく死にますよ」

僕は手すりにもたれた背中を離して下を見た。八階建てのマンションだ、確かに死ぬだろう。

「だろうな」
「そうじゃなくて、落ちたらどうするかって聞いているんです」
「うん」
「先輩が止めるまもなく、まるで猿みたいに躊躇なく飛び降りるんです。指一本さわる暇もなく」
「そりゃ見ているしかないな」
「もちろん。だから、そのあとは?」
「あと?」
「そうです。僕が地面でぺしゃんこになってますよね。変な方向に関節が曲がってたり、もしかしたら頭もすごい事になってるかもしれないですね。ぱっくりいってるかもしれません。それを見て、先輩ならどうしますか?」
「そうだな」僕はあごをなでた。
「はい」
「俺なら、お前をしばらく見てるような気がするな。即死だろうから、急いでいったところで助かる見込みもない」
「どうして見てるんですか?」
「整理するためだよ」
「整理?」
「気持ちの整理さ。いくら俺でも、さすがに目の前で人が死んだら混乱してどうにもならなくなるかもしれない。飛び降りる前に煙草とライターを置いてってくれれば、ゆっくり煙草を吸いながら息でも慣らすんだけど」
「じゃあ置いていきますよ」そう言うと、後輩は煙草とライターを僕に手渡した。
「おいおい、やめろよ」
「本気ですよ僕は」手すりに手をかける。
「それいけ」と僕は言った。
「本当に行きますよ」
「いっちまえ! 飛び降りろ!」
「えいっ!」

後輩は手すりを飛び越し、手すりの向こうの数十センチほどのコンクリートにきれいに着地した。

「びっくりしました?」
「そんなことだろうと思ったよ」
「ここにいると、よく見えますよ」
「何が?」
「先輩の彼女ですよ」
「うん?」

僕は身を乗り出して真下をのぞき込んだ。そこには本当に僕の彼女が横たわっていた。地面に。

「どういうことだ?」
「だから、先輩の彼女ですよ」
「うん?」
「僕が突き落としたんですよ、さっき」
「どうして?」
「行かなくていいんですか? 早く行かないと死んじゃいますよ、もう落としてからだいぶ経つから、死んじゃってるかもしれないですけどね」後輩はにやっと笑った。

僕は階段を駆け下りた。確かに地面には彼女が倒れていた。僕は彼女の肩をゆすり、何度か名前を呼んだ。

「ひっかかったな」と誰かが言った。彼女が体を起こした。言ったのは彼女だった。
「たのむぜ」と僕は言い、頭をかかえた。
「やったやった」と彼女は喜び、いかにもうれしそうに微笑んだ。まんざらでもなかった。

「やったやった」と屋上からも声が聞こえた。後輩が身を乗り出して喜んでいた。しかしその瞬間、後輩は足を滑らせて落ちてきた。闇の中で妙に立体感が増して見えた後輩の体は、あっという間にすぐ目の前の地面にたたきつけられた。映画なら彼女の目を隠すところだけど、そこまで気が回らなかった。数十メートル分の衝撃が、ふわりとした風になって僕と彼女に浴びせられた。僕と彼女は動かない後輩のそばに、枯草みたいに立ち尽くしていた。

「俺はバスタブの中で、声を殺して泣くんだ」と、気がついた僕は言った。