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面影ラッキーホール Archive
'10 03月04日 (木) 22時49分 : 面影ラッキーホールを聴け Vol.5 『必ず同じところで』

日本のミュージックシーンで間違いなく異彩を放つバンド「面影ラッキーホール」の楽曲群を読み解くシリーズ第5弾は、アルバム「代理母」から「必ず同じところで」を取り上げます。今回は、ダメな女性のお話です(面影ラッキーホールの曲は、ダメな男性の話かダメな女性の話か、その両方のお話かのどれかですが)。
あらすじ
6分14秒のスローな曲で歌われるあらすじは、以下の通りです。このシリーズを理解してくださっている方にはお断りの必要は無いでしょうが、以下には不適切な表現が含まれますので、お嫌いな方はご退出くださいね。
- 都会の片隅で、ある若い女が半生を思い返している。
- ある男を追いかけて田舎から上京し、その男だけを支えに生きてきたが、ある日『彼は工場を辞めてあたしの嫌いなシゴトを始め』、女性も『同じようにまったく知らない化粧の仕方覚えた』。
- 男は高校の先輩で『あのひとみんなのあこがれだった』が、『さえないあたしは気を飛行と無茶なコトさせられた』。『からかい半分のデートでさえもあたしの胸は高鳴ったし』、『女になった夜は同時に彼の友達にも抱かれた』。
- 『必ず同じところで・・・』
- 男は『一晩に物凄いお金動』すようになり、派手な生活が続き、『あたしも同じようにOLじゃ買えないなりふりを身につけた』。
- 高校の後輩の結婚招待状が届き始めた頃、母親にお見合いをさせられた。『女として人並みな幸福』が頭をよぎる。
- 『必ず同じところで つまづいて・・・』
- 『子供のようなあなた あたしの胸でおやすみ』
- 男は追われる身になり、女は男を立ち直らせようと『無茶なコトさせられた』。『このひと以外との生活に戻れないのは確かだった』。
- 『女としての幸福を買われた男の胸で感じた』。
- 『必ず同じところで つまづいてしまう』
ダメな男に翻弄される、ダメな女。ここまでハッキリと分かりやすい話ではないにせよ、今日も日本中にこんなカップルが無数に存在しているでしょうし、僕もそうなる可能性があった(もしくは、実は今もそうなっている)のでしょう。女はこの男を好きになったばかりに、ガラガラと転落していきます。『必ず同じところでつまづいてしまう』と現状を理解できているのに、『子供のようなあなた あたしの胸でおやすみ』と男を愛することを辞めず、『無茶なコトやらされ』る生活から離れようともしない。僕には直接の経験はありませんが、世の中にはある話なのかもしれないな、と想像しますし、そんな矛盾を抱えたこの女の考えについても特に違和感はありません(むしろ、僕も同様に矛盾を抱えているとすら思います)。
ポイントは1つです。タイトル『必ず同じところで』にも含まれる『同じところ』とは、具体的にどこなのか? という点です。
ミスター正当性の主張
もし世の中に正しい人、ミスター正当性みたいな人がいたとしたら、女に対してこう言うでしょう。
「同じでも何でもない。今からでも現状を理解して男から離れるべきだし、これまでその都度そんな判断はできたはずだ。お前が間違っている。お前は、問題に対処しないからこそ、必ず同じところでつまづくのだ」と。
『同じところ』とは、目の前にあるダメな男性による問題そのものだ、とミスター正当性は言います。そりゃそうでしょう、何せ女はこんなダメな男に近づくために別の男に抱かれるというレイプに近い行為をされ、追い込まれる男のためにカラダを売るという『無茶なコト』まで自らの意に反して行っているわけですから(ただし個人的な考えとして、女性の性的陵辱に対しては敵意すら覚えますが、性産業を差別したり見下したりするつもりは一切ありませんので、申し添えます)。
なぜこんな『無茶なコト』をするのか、何のために女はこんな辛い生活に耐えているのでしょう? 答えはきっと、「男と二人、いつもいっしょにいたい」だけなのでしょう。ミスター正当性は暗に「女自身がシアワセになる方法」を諭すことで暗に男と引き離そうとする一方で、女は男と一緒にシアワセになることを、つまり「男とはなれない方法」を考えているのですから、ミスター正当性の言葉はこの段階で女とすれ違ってしまいます。そもそも女は『必ず同じところで つまづいてしまう』と自らの人生が失敗続きであることを分かってすらいますから、ミスター正当性は残念ながら役不足ですね。
そんな風にして、女は『必ず同じところで』つまづき続ける人生を今日も送っています。そしてその世界は、正当性なんぞ入り込む余地の無い何かが支配する世界のようです。
「二人はいつもいっしょ」というルール
一方で、この歌の構造をカメラを引いてみて、二人の対比構造に注意してみます。
- 男が『みんなのあこがれ』である時、女は『彼の友達にも抱かれる』。また、男が『一晩で物凄いお金動かす』ほどの時、女は『OLじゃ買えないなりふりを身につけた』。
- 女は一人お見合いをして『人並みな幸福』について考えるが、結局何もしない。
- 男が『追われる身』の時、女は売春で金を稼ぎながら『女としての幸福を買われた男の胸で感じた』。
上の3つの例は、こう言い換えられます。
- 男がプラスの価値を持つ時、女はマイナスの価値を持つ。
- 男が居ない(ゼロの価値)時、女もまたゼロの価値を持つ。
- 男がマイナスの価値を持つ時、女はプラスの価値を持つ。

二人の価値の総和は、常にゼロで均衡しているんですね。男と女の価値は常に逆向きで、ベクトルを足し合わせると点(ゼロ)になります。壁を手で押すと、押す力と同じ大きさで逆向きの力で壁が手を押し返す力が働くという『作用反作用の法則」なんて物理で習いましたけど、とても似た状況ですね。そして、この作用反作用の法則には、もう少しだけ続きがあります。
・・・同じ力で押し返されるからこそ、壁も手も動かない。
ゼロで均衡している以上状況は変わらない、だからこそ男と女はずっと一緒にいることができるんですね。逆に言えば、男がどこまで人の道を外れていっても、女がそれに代わる価値を生み出しさえすれば、二人は離れることはないし、恐ろしいことにそれは女が望むことなんですね。こんな状況は、おそらく男がさらに悪い状況に陥って、女が対価を支払えなくなるまで続くでしょう。それは言わば、女にとって社会的な死か身体的な死のいずれかに値することでしょう。ひどい話ですが、それが「二人がいつもいっしょ」の世界におけるルールなのであり、ルールを変えない以上救いが無い世界であると思われます。
この部分だけなら、きっとミスター正当性にも理解できる話じゃないかと思うんです。ルールを変えない以上、救いが無い・・・そりゃ、そうだろう、と。悪い男とくっついてたら、シアワセになれるはずがない。僕も、なんとなくこの論理には同意したくなります。
しかし、そんな考えを、実は面影ラッキーホールはさりげなくも一蹴しています。こんな状況でも、女はシアワセなのだ、と言うのです。
虚数としてのシアワセ
もう一度、冒頭のあらすじを以下に示します。ただし、注目して欲しい部分は色がついた強調部分だけで、他の部分は読んでいただかなくて結構です。
- 都会の片隅で、ある若い女が半生を思い返している。
- ある男を追いかけて田舎から上京し、その男だけを支えに生きてきたが、ある日『彼は工場を辞めてあたしの嫌いなシゴトを始め』、女性も『同じようにまったく知らない化粧の仕方覚えた』。
- 男は高校の先輩で『あのひとみんなのあこがれだった』が、『さえないあたしは気を引こうと無茶なコトさせられた』。『からかい半分のデートでさえもあたしの胸は高鳴ったし』、『女になった夜は同時に彼の友達にも抱かれた』。
- 『必ず同じところで・・・』
- 男は『一晩に物凄いお金動』すようになり、派手な生活が続き、『あたしも同じようにOLじゃ買えないなりふりを身につけた』。
- 高校の後輩の結婚招待状が届き始めた頃、母親にお見合いをさせられた。『女として人並みな幸福』が頭をよぎる。
- 『必ず同じところで つまづいて・・・』
- 『子供のようなあなた あたしの胸でおやすみ』。
- 男は追われる身になり、女は男を立ち直らせようと『無茶なコトさせられた』。『このひと以外との生活に戻れないのは確かだった』。
- 『女としての幸福を買われた男の胸で感じた』。
- 『必ず同じところで つまづいてしまう』
注目すべきは、上記の3箇所の強調した部分です。男の価値がプラスからマイナスへと転落し、自らが価値を生み出して男を養わなければならない状況であっても、女はシアワセを感じている様子が描かれているんですね。・・・ここで、やっと先の問題に対する答えを導き出すことができます。『必ず同じところで』の『同じところ』とは、どこか? の答えは、ここです。
女は、シアワセだからこそ、男から離れない。『同じところ』とは、ふいに訪れるシアワセのことだ。
二人でいる限り、互いの価値は打ち消され、ゼロになることは先に論じました。数直線の右と左に互いの価値は反発して伸びていき、結局いつも足し合わせれば、ゼロ。一方で、そんな価値とはまったく別の軸に、シアワセは訪れます。

左右に伸びた数直線を直角に貫く、もう一本の軸。それは数学では虚数軸と呼ばれます。水平な軸の上の数字は実数(real number)と呼ばれ、垂直な軸の上の数字を虚数(imaginary number)と呼びます。二人の価値とシアワセは、複素数平面と呼ばれるこの図の上では、こんな風に表現できそうです。
虚数とは、英語のimaginary numberの和訳です。imaginary numberを直訳すると、「想像上の数」。本来の数学では「二乗してマイナス1になる数」を指し、そんな数は現実には存在しないことからこその命名がされているわけですが、この言葉は目に見えない「シアワセ」という概念と非常に相性が良さそうです。
『必ず同じところで』における女の体は、男の友達に犯されたり、お金にために見知らぬ男のために犯されています。現実世界における女は、男との関係やお金を産むためにボロボロになっています。そんな状況を見て、ミスター正当性はダメだと言うでしょうが、その忠告は永遠に女には届きません。なぜなら、ミスター正当性の言うことは、すべて実数(価値)に対応したものだからです。物語の中でも、母親からの忠告でお見合いをしたりして、一定の実数(価値)を得て人並みな生活を送ることについて、女は一度考えています。しかし、女は実数ではなく、虚数を選びました。世界に存在して客観視できるお金・安定・社会性という価値ではなく、世界に存在せず正当性の入り込む隙の無いシアワセが支配する世界を選んだんですね。女は、そのシアワセの条件として「二人でずっといっしょにいること」というルールを定めました。そこでは熾烈なゼロサムゲームによって自らの価値が搾取されることも、女はわかっていました。最後は『女としての幸福を買われた男の胸で感じ』るという転倒した状況にすらなったとしても、女の世界はルールを変えない。
女がつまづいていたものの正体とは、シアワセだったのです。
だからこそ、ほら、僕はこの文章の頭から最後まで、「不幸な女性」とは、書けなかったんです。
あとがき1
写真は、八戸のある場所で撮影した女性の後ろ姿です。とても美しい人でした。誰かが迎えに来るのを待っているのか、寒い中をずっと立って待っていたようです(一度撮影して戻ってきても、まだいましたから)。近くにはバスの待合室もあるのに、どうして彼女は外で待っていたのか? その理由は、上の話の同じようなところにあるのかな、と思ったりもします。
当然のように、この女性はこの物語との関連性は一切ないことを、最後にお断りしておきます。
あとがき2
数学における複素数平面では、点を「回転」させることができます。様々な数の組み合わせ(それは行列と名づけられています)を掛け合わせることで、実数と虚数の組である点が回転したり、ゼロから遠く離れたり近づいたりします。ただし、実数も虚数もゼロである場合だけ、点はどんな行列を掛け合わせても、変化しません。永遠に、完全に、ゼロであり続けます。
行列によって、僕が持っている「目に見える価値と目に見えないシアワセ」が、回っていく。でも、僕が完全にゼロになってしまったら、もうどうしようもない。・・・言葉の上の遊びではありますが、この喩えも、また、味わいがあるように感じます。
次回は、再びダメな女性が登場しますが、状況は今回よりももっとタフです。『夜のみずたまり』、『必ず同じところで』と同じアルバム「代理母」からの楽曲です。本当名盤です、このアルバム・・・では、ご期待下さい。
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'09 01月31日 (土) 09時01分 : 面影ラッキーホールを聴け Vol.4 『あんなに反対してたお義父さんにビールをつがれて』

ここ10年の日本のポップス界最大の収穫だと僕は思っているバンド・面影ラッキーホールの楽曲を掘り下げる当シリーズ4回目は、ダメな男の人生に舞い降りた奇跡を感動的に綴った面影ラッキーホールのマスターピースと言える作品『あんなに反対してたお義父さんにビールをつがれて』をご紹介します。
まずは、とにもかくにも歌詞の物語を簡単にまとめてみましょう。
- 主人公は不良の高校生。不良仲間の間での『女の話』を真に受け、『幼なじみのみちこ』を無理矢理犯してしまう。
- 一度の性交渉でみちこは妊娠、『俺みちこの父親に玄関で力いっぱい殴られたんだ』。
- 主人公はみちこを連れて駆け落ち、見知らぬ街で『俺設備やに就職し』『みちこスーパーでパート』で働き始めた。
- 『二十歳でみっつの子供抱えて』。
- 『「若いときに産んだ子はデキが悪いってね」「毎晩お盛んなんでしょうね」』と世間から罵られる言葉が、主人公とみちこを一人前の父親・母親にしはじめた。
- そんな二人をみちこの両親も認めはじめ、駆け落ちから5年たったある日に帰省。
- 義父は静かに主人公の子供を膝に抱え『「おじいちゃんだよ おじいちゃんだよう」』と涙を流す
- 『あんなに反対してたお義父さんにビールをつがれて』。
こんな物語が、5分14秒の曲の中に詰まっています。絶対に褒められるものではない事をした主人公が、世間から罵られつつも幼なじみの妻と生活を共にし、やがて両親に認められていく。ダメ人間が長い時間をかけて、少しずつ世界と邂逅していく。
主人公は、殴られた義父に対してもう一度頭を下げたりは難しいものだし、そもそも顔だって合わせたくないでしょう。義父にしたって、元々娘にひどいことをした男を許すことは、論理的に考えればできない事。しかしそんな両者の雪解けを間接的に実現させたのは、世間から放たれる冷たい罵詈雑言によって主人公の心が変わっていった事である点は非常に深いと思います。
若くして働く主人公や妻に対し、「若い頃に出来た子は・・・」「毎晩お盛ん・・・」なんて言うのは、悪意以外の何者でもありません。しかし、その悪意が主人公を結果的に叩き直す事になるんですね。昔は幼なじみを力ずくで自分のものにするような悪意にまみれていた主人公も、妻や子という守るべきものを持った今では、逆に悪意に耐えられるだけの強さを持っていたということになります。
やがて主人公と義父は、論理的な善悪を超えて和解します。注がれたビール、義母の作った煮物・・・そこにあるのはとびきりのご馳走ではありませんが、この一杯のビールと煮物を手に入れるために主人公がたどってきた道のりはあまりに不器用で、悪意の応酬にまみれ、人間臭いものでした。
更正するということ
古典落語の名作「芝浜」をご存じでしょうか。あらすじはこのようなものです。
- 酒ばかり飲んで働かない主人公は、嫁にせっつかれて仕事に出た早朝、大金の入った財布を拾う。
- 大金を持ってきた主人公は、酒と料理に贅を尽くした宴会を家に友人縁者を呼んで盛大に行い、そのまま寝込んでしまう。
- 翌朝、嫁は昨日と同じように主人公に仕事をせっつく。
- 「昨日拾った大金があるんだから働く事なんてない」と言う主人公に対し、嫁は「なんだい、その大金ってのは? 夢でも見たんじゃないのかい?」と嘘をつく。
- さらには、宴会をしたことは本当で、酒と料理の分だけ借金が増えたと上手く信じ込ませる。
- 改心した主人公は酒を断ち真面目に働き数年後、手に入れた自分の店で迎える年の暮れ、嫁は大金の入った財布を主人公に差し出す。
- 「長屋の大家に相談したら、拾った大金など使ったら命を狙われるか寄せ場(刑務所)送り。大金は夢だと旦那を騙し、拾った金は役人に届けろと言ったから、その通りにした。払い下げで大金は戻ってきたが、打ち明けられずにいた」と嫁。
- 涙を流し嫁を慈しむ夫に対し、殴られ勘当される心配をしていた嫁は気分が高まり、お酒を飲みたい、一緒に飲もうと言い出す。
- 主人公は快諾し酒を注がれるが、湯飲みを口の手前まで持って行ったところで手を止める。
- 「止そう。また夢になる。」
この物語では、酒ばかりで働かないダメ男が改心していく様子が描かれています。この話だって、主人公は論理的に考えたらダメ人間です。でも、そのダメ男が真面目に働き、立派に自らの店を持つまでに成長していく様子は、落語の聞き手である大衆に響きます。
一度ミソがついた人間、ダメな人間でも、更正できるとこの物語は言っています。より本質的に言えば、一度失敗した人間でも、その後しっかりと立ち直れば、世間は受け入れるだけの懐の深さがあるということです。
更正とはこういう事ではないかと思います。更正は、2つの立場の人間がいて初めて実現できることなんですね。
- ダメなことをした本人が立ち直る。(立ち直ることが可能である)
- 周囲の人が更正したダメ人間を受け入れる。(受け入れることが可能である)
しかも、上記2つのポイントが実現される時、そこでは論理的な思考は意味を成さない場合が多いことも特筆すべきことでしょう。面影ラッキーホールの『あんなに反対してた・・・』では、主人公・義父ともに互いの過去から論理的に現在の相手を推測していたら、会う気にもならなかったでしょう。古典落語の芝浜においては、大金を拾うという幸運を嘘だと騙され何年間も働き通しにさせた妻に対し、主人公は激昂することも出来たはずです。しかし主人公はそうしないことで、幸せを手に入れました。
ここには途轍もない人生に対する視座が示されています。
論理的に考えることだけでは、世界は幸せにはならない。
世の中は、言ってしまえばダメな人間の集合体です。頭が悪い人、怒りっぽい人、自分で物事を決められない人、お金に無頓着な人、エッチな人。体力が無い人、目・耳が弱い人、体臭のある人、見た目がブサイクな人、深刻な病を抱えている人。これらを論理的に考えて、「ダメなものはダメ」「悪いものは排除」と言ってしまったら、世の中は成り立ちませんよね。
だからこそ、人間は持って生まれた心、特に感情の部分を駆使して、世の中や自分が幸せになるように行動します。論理的に「この人はダメ人間である」と決めつけたり、分析したりするだけではなく、「性格キツイところもあるけど、とりあえず真面目だし」「顔はタイプじゃないけど、とにかくやさしいから」なんて具合に美点と欠点の折り合いを付けて生活をしているわけです。
今回の曲の物語は、論理的に物事を考える人や、自分には未来と希望が溢れていると感じている人にとっては、連帯しにくい部分があると思います。「ひどい事をした主人公に同情の余地は無い、こんな奴とは友達にもなりたくない」なんて言う人も、いるかもしれません。そんな人には申し訳ないのですが、僕はどちらかというと主人公側に連帯します。
だって、僕もダメ人間なところが多分にありますから。
そして、過去や感情をうっちゃって邂逅した主人公の義父が涙ながらに言う「おじいちゃんだよ おまえのおじいちゃんだよう」という言葉の力を、信じたいと思いますから。
ちなみに、この「おじいちゃんだよ・・・」の部分、楽曲では情感たっぷりにシャウトされています。聞き所です、グッと来ます、正直泣きました。是非、聴いて欲しいなって思います。今日の写真の通り、CD屋さんでは買いにくいジャケットでもありますし、下のリンクをポチッてみちゃって下さいませ。
今回ご紹介した曲と同じアルバム『代理母』から、次回もお届けしたいと思います。タイトルは『必ず同じところで』。これまでとは一転して、ダメな女性のお話です。お楽しみに。
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'09 01月30日 (金) 01時28分 : 面影ラッキーホールを聴け Vol.3 『俺のせいで甲子園に行けなかった』

毎回強烈なリアクションをいただいている面影ラッキーホールを掘り下げるシリーズ3回目の今回は、救いの無さでは指折りの楽曲『俺のせいで甲子園に行けなかった』をご紹介します。間違いなく面影ラッキーホールのマスターピースに数えられるであろう、もう目を覆いたくなるような不幸を歌っています。
『俺のせいで甲子園に行けなかった』
物語は非常にシンプルです。ファンキーでノリの良い曲の上で、こんなストーリーが語られます。
- 主人公は高校球児。チームは甲子園行きを決めていて、愛しの彼女と共に白球を追いかける生活。
- ある日、主人公の彼女は学校帰り、別の高校に通う男に襲われます。
- 彼女が襲われた事実を知った主人公は、襲った男に対して『惚れた女を守るための 男としてあたりまえの』ことをします。
- その復讐は次の朝の新聞記事になり、主人公の通う高校は甲子園に行くことができませんでした。
- 『俺のせいで甲子園に行けなかった』。
以上があらましです。主人公は彼女を守るためのことをしただけだし、彼女は悪としての暴力に晒されただけです。にも関わらず、野球部の監督もナインも実の親までもが彼を非難し、救いが訪れることはありません。一体何が起きたのか? つい先日まで一丸となっていた野球部も家族も、ふと訪れた悪意によってズタズタに切り裂かれ、いまだ悪意は少年の頭の上に不吉な影を落とし続けている・・・
にも関わらず、主人公はこうつぶやくんです。『俺のせいで甲子園に行けなかった』。「俺のせいで」と彼は言います。彼女を守るためにしたこと、でも、あくまで甲子園に行けなかったのは自分の責任だ、と。自分を責める少年の想いが繰り返すまま、曲は終わります。
少年を責める資格
少年には2つの選択肢がありました。
- 彼女を襲った相手に復讐せず、彼女と共にじっと耐える。
- 上の物語の通り、相手に復讐する。
主人公は後者を選び、結果的に悲劇に見舞われました。甲子園行きを決めていた学校にとってはさらなる不幸となり、甲子園は夢と消えました。当然、周囲の人間は少年を責め立てました。
しかし、少年は『惚れた女を守るための 男としてあたりまえの』行動をしたまでたと言います。ここで少年が言う『男としてあたりまえの』行動を少年にさせたものは何でしょう? 少年が復讐をするべきだと判断した行動規範は、誰から教えられたものでしょうか。言うまでもなく、彼を取り囲む社会・・・家族や野球部といったコミュニティでしょう。彼はこれまでの十数年の人生で学んだ良識ある常識に基づき、『あたりまえの』行動をしたんですね。そんな風に少年を育てた社会に属する人間として、彼を責め立てるだけの権利がある人間はいるでしょうか? ましては、少年が復讐しなかった時に生じる彼女との軋轢や、その後の少年が感じ続けるであろう後ろめたさを担保するだけの納得いく説明を、誰が少年に教えることができるでしょう? ・・・そう考えていくと、上の選択肢のいずれを採っても、全員が100%ハッピーになることは無いことが分かります。
彼女を襲った悪意は、性欲という形で人間の底から出てきたもので、しかもそれは「その欲望を達成すれば、誰かが必ず不幸になる」ものです。人間の中からそんな感情が芽生えることが往々にしてあるということは、受け入れようにも受け入れがたい事実ですが、世界はそのように出来ているようです。そんな生身が露出したグロテスクな悪意を前にして、僕たちはただ翻弄され、受け手として流されるしか無いように思えます。人はそれを不幸と呼びます。
悪意が巡る世界
とあるきっかけで生まれた悪意が人々の間を巡り、連鎖していく中で、それぞれの人間は利害関係や想いの中で生きていく様子を描く・・・そんな試みは、例えば村上春樹の「アフターダーク」といった小説であったり、古谷実の「わにとがげぎす」といったマンガで行われているテーマです。通奏低音として「解き放たれた悪意と、悪意に翻弄される無力感」が支配する世界観の中でも、人は逆説的に「悪意と同じように不意に訪れる幸福」を願いながら生きていく。ランダムで暴力的な悪意にさらされた世界であっても、せめて自分の行動規範に向かって恥じない人生を送りたいと願いながら、生きていく。それでも、どうしようもない時も、ある。
先に議論した通り、主人公はどう行動しても悪意を100%排除することはできません。「どうしようもない」状況な訳です。面影ラッキーホールがこの曲で表明する「悪意の前では、論理で考えてもどうしようもないし、そもそもが『どうしようもない』場合もある」という無常な世界観は、ともすれば頭の中の理論だけで「良いものは良い」「悪いものは悪い」と画一的な物事の考え方を持ってしまう僕たちに、別の世界の見方を静かに語りかけているように思えます。
面影ラッキーホールに吉本隆明が見いだしたもの
この曲は1998年のアルバム『代理母』に収録され、「面影ラッキーホールを訊け Vol.1」でご紹介した『パチンコやってる間に産まれて間もない娘を車の中で死なせた・・・夏』の中にライブバージョンとして再録されました。このシングルの歌詞カードの巻末でコメントを寄せているのは、なんと吉本隆明(にわかには信じられないのですが)。戦後日本の思想の巨人と言われる吉本さんが、面影ラッキーホールの曲に対してこのようなコメントを寄せています(未だに本物か疑ってしまっていますが)。
この人はうますぎるほどの物語詩の作り手だ。
私はすぐに少年のころ巷にあふれて
子供ながら唄いまくっていた
悩み忘れんと
貧しきひとはうたう
暗い路地うらに
夜風はすすり泣く
という歌を思い出した。
流石に戦後版だけに底光りが射しかけてくる。
吉本隆明
吉本隆明は、ここで重要な指摘をしているように思われます。それは、本能的に歌を歌う子供たちが気づいている「歌や物語や詩という形でなければ、不幸は表現し得ない」ということではないかと思います。歌や物語や詩は決して論理的なものではなく、実益的なものでもありません。しかしながら、自ら思想家でありながら詩人でもある吉本隆明は、子供が直感的に何かを感じ取っている「不幸を唄う歌」を引用しながら、面影ラッキーホールの詩が到達している「歌や物語や詩だからこそ、不幸を表現できる」点を指摘しているように思われます。
不幸は自然科学では扱えません。ましてや、人間の欲求や怠惰といった高位に複雑化した概念は扱いようがありません。そんな概念を定義した論文なんか、誰が読んでも面白くも役に立ちもしないでしょう。しかし僕らはそんな定義できない感情の中で生きているし、だからこそ人生の中に歌や詩や物語が必要なのだろうと、僕は思います。
さて次回は、救いの無いまま物語が閉じられた今回とは打って変わって、ダメな人間に舞い降りた救いを温かく描く物語『あんなに反対してたお養父さんにビールをつがれて』をご紹介します。泣いちゃいますよ、この歌。
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'09 01月28日 (水) 07時21分 : 面影ラッキーホールを聴け Vol.2 『私が車椅子になっても』

上の写真のジャケット、エッチぃですよね。iTunesストアではジャケットの写真が差し替えられているぐらいにエロい。さすがです、面影さん! というわけで、面影ラッキーホールの楽曲を解説するシリーズ「面影ラッキーホールを訊け」2回目の今回は、最新アルバム『Whydunit?』から、最低も最低、頭抱えてもんどり打ってしまう問題作『私が車椅子になっても』を掘り下げます。
『私が車椅子になっても』
さわやかなイントロ、そして一言目は『愛している 愛しているよね ダーリン』。ここまで訊くと、おや? なんだか面影さんに似合わないほどさわやかな純愛ソングではないかいな? なんて勘違いしてしまうかもしれません。しかし、この部分。歌詞カードでは、こうなっています。
愛している? 愛しているよね? ダーリン
・・・「?」がついてるんですね。途端に怖くなりますね。この言葉、女性から男性に向けた言葉なんですが、その後を訊けばもう、一発で面影さんの歌だと分かります。ザ・不幸。(歌詞そのままの引用は出来ないので元歌詞を加工修正しています)
愛している? 愛しているよね? ダーリン できなくなっても
離れないで? 離れないでね? ダーリン 車椅子になっても
『病める時も一緒』だよって、結婚式の時に神様に誓ったよね?
もうそんなに確認しないでくれよぅ!!と叫びたくなるような歌詞。これがサビだってんだからもう、面影さんヤリすぎですってば。上の不吉な歌詞の通り、新婚の二人をある不幸が襲います。スピード超過の大型トラックに奥さんを跳ね上げ、車椅子の生活が余儀なくされてしまうんです。新婚の二人はリハビリに励みますが、厳しい生活は結婚当初の幸せを見えにくいものにしてしまいます。そんな生活の中で、夫はついに人として(少なくとも社会を構成するマトモなオトナとして)絶対に言ってはいけないことを口に出してしまうんです。
夫が言った言葉。あまりにもひどいので、ここから先はヒドイ事を読んでも構わない人だけ読んでください。
以下、過激な表現を含みます。
苦情は受け付けません、辛い思いをしたくない方は申し訳ありませんがご退出下さい。
夫は、妻を診た医師にこう訊くんです。「先生・・・あの、その・・・」と口ごもりながら、最低だけどリアルな一言を、ついに口に出しました。
確認したいんですけども、正直なところ・・・性生活は可能ですか?
うわー最低! ああーもう! これだけでも最悪なのに、さらに男はとある人間と接触します。その男はやり手の弁護士。もうこれだけでウンザリしますが、男は弁護士にこう尋ねます。
確認したいんですけども・・・慰謝料無しで離婚は可能ですか?
ひでぇ。あまりにもひどい。こんな事をブログに書いてしまったら、僕の人格まで疑われてしまうんじゃないかというぐらいにヒドイ。しかし、この歌はあくまでポップで明るいアレンジで続いていきます。曲の最後は、やはりサビ。こんなヒドイ事を考えている男の気持ちを知ってしまった後では、この歌詞は強烈に切なく響きます。
愛している? 愛しているよね? ダーリン できなくなっても
離れないで? 離れないでね? ダーリン 車椅子になっても
『病める時も一緒』だよって、結婚式の時に神様に誓ったよね?
ああ、ああ!
あなたは本当に矛盾していないのか?
なんという無情、無常でしょう。事故に遭った女性は、あくまでも夫を信頼し、『愛しているよね?』と確認しているんですね。しかしこの物語に出てくる男はこの通りヒドイ奴ですから、もし愛しているよね? と尋ねられたのなら「今は愛していない」ということが言えてしまうかもしれません。しかし、しかし。ここで強烈に男の頭に突き刺さる一言は『病める時も一緒』と誓ったよね? という指摘です。二人は結婚式において、神に誓ったんですね。おそらく教会での結婚式でしょう、確かに皆の前で宣言したのでしょう。論理的に、病める時も一緒だと宣誓したこの世界においては、夫はこの妻から離れられない状況にいるわけです。
もし僕なら、もしあなたなら? 実際にこんな状況になったら、どう思うでしょう。事故の後の生活が本当に苦しくて、逃げ出したい気持ちが産まれてしまっていると仮定して、僕やあなたは妻に対してどう答えるのでしょう? そして、僕の人格を疑われる心配も辞さずに言うなら・・・もしかしたら僕やあなたの中のダメ人間な部分が「神の前で誓ったって言っても、結婚式の形式的なことだろ?」なんて言い出しはしないでしょうか? ここまで来れば、もう救いなんて有りやしません。ダメの極北です。
ここまで考えた上で、僕は改めて「ああ、この歌の物語が作り物で良かった」と心の底から安心するんです。僕は神に誓って女性を置いて逃げることなんてしないと、論理的に100%確実に約束できるだろうか? と自分に問い詰めるほど、作り話であることが身に染みてありがたい。
・・・避けられない不幸と、辛さを目の前にしてダメさを露呈する男と、それでも男を信じようとする女。「よね?」を付けて確認してしまう人間の性。そんな物語から、僕やあなたの胸元に突き立てられる「本当に、本当にお前は逃げ出さずにいられるか!?」というナイフ。頭の中の論理的な思考と、感情的なダメさの矛盾の間に生きるのが僕らだとすれば、その矛盾を抱えた人間の姿をここまでクッキリと浮き彫りにした曲は無いでしょう。
ところで・・・上の記事を読みながら、こんな風に感じられた方はいらっしゃいませんか?
「こんな悲惨な話、誰も好んで読みはしないわ!」
うむ、確かに、と思います。実は僕も書きながら感じていたことでもあるんですが・・・でも世の中には、悲惨な話ばかり書いてあるのに、人間の欲望・怠惰といったネガティブな本質ばかり書いてあるのに、めちゃくちゃ売れている本があります。それも、ギネスブックに載る「世界で最も読まれた書物」・・・聖書です。嫉妬、裏切り、無知、暴力。数々のネガティブな人間の本質が書き連ねられたこの物語は、キリスト教という宗教が成り立つための礎として宗教の世界観を作り上げつつも、生身のリアルな人間の行動についてつぶさに記録された「人間の鏡」のような物語になっているように思います。人間の本質を描こうとすれば、ネガティブな要素は避けられないと逆説的に言えるのかもしれません。
今回とりあげた面影ラッキーホールの曲では、交通事故で重傷を負った妻に対し、下品な欲望や打算の感情を持ってしまった夫の心情が語られます。世間一般ではタブーではあるかもしれないけれど、だからといって「悪いものは悪い」と思考停止するのではなく、「本当に自分はそんなネガティブな考えを持たずにいられるか?」と自分に関係ある問題だと捉えられるかどうかのほうが大事だと僕は思います。
それは求道的でストイックで、宗教的といっても過言ではない、自らに究極の問いを突きつける行為です。まともにやったら、尋常な辛さではないですね。しかし、面影ラッキーホールは「歌」というメディアを選びました。文学や映画のように、あくまで物語として提示し、かつ音楽に乗せました。数分間のメロディに乗せ、あまつさえ踊りさえしながら聴かせてくれるこの物語は、不謹慎・アンダーグラウンドであると同時に、聖書と同じような手段でリアルに心に響きます。僕らは単純に音楽に酔いしれても良いし、物語を深く読み込んで心に何かを感じても構いません。
このバンドを、いかにも若者に好まれそうな不謹慎な話ばかり叫び散らしている奴らだと思いこむのは、半分は正しいかもしれないけど、めちゃくちゃ重要な方のもう半分を取り逃しているように、僕には思われます。もちろん、楽しみ方としては「サブカル的な雰囲気だけ、ノリだけ」でも良いとは思うんですけどね。
好評・不評がパックリ割れているこのシリーズ、次回は救いの無さでは面影ラッキーホールの楽曲群の中でも頭ひとつ抜けている『俺のせいで甲子園に行けなかった』をご紹介します。またもや、タイトルだけで、もう、もう・・・(涙)
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'09 01月27日 (火) 06時59分 : 面影ラッキーホールを聴け Vol.1 『パチンコやってる間に産まれて間もない娘を車の中で死なせた・・・夏』

八戸という街では、パチンコが盛んです。都会に比べれば所得は低い・・・はずなのに、何故かパチンコ屋は大盛況。どっからお金が出てくるんだべ? と不思議に思いながらも、これも漁師町のサガだったりもするんだろうなぁ・・・とも思います。
明治の30年代に小中野に貸座敷が生まれてから、東北屈指の歓楽街であった八戸。芸者が闊歩するネオンきらめく町並み・・・今となっては面影もわずかに残る当時の建物ぐらいしかありませんが、遊び好きと言われることも多い漁師の一昔前は「飲む・打つ・買う」。お酒を飲んで、博打を打って、春を買っていたわけです。そういう時代だった・・・なんて聞いたことがあります。(今、まじめに生活されている漁師の方、申し訳ありません! あくまで昔話ということで、ひとつ)
お酒は今でも飲めますが、売春は昭和33年の売春禁止法によって完全に絶たれ、残された博打はパチンコだけ。
そんなこんなで、八戸では今もパチンコが盛んだったりするのかなぁ・・・とか思いながら、僕もたまにパチンコ屋をのぞいてみたりするんです。八戸に帰省した時だけ、行く時は大抵21SEIKIかNeverlandか・・・なんてローカルトークはさておき、パチンコと言えば。
皆さん、「面影ラッキーホール」というバンドをご存じでしょうか。
1998年にデビューしたバンドなんですが、このバンドの歌の世界観がスゴイです。徹底的にダメ人間を歌う。不幸を歌う。歌謡曲にもなりきれないような、リアルな怠惰と情欲にまみれた人生を歌う人たちです。しかも何故かバンドは大所帯で、ファンクっぽいノリの良いアレンジだったりするんで、聴いてるだけで頭が混乱してくる感じすらします。
で、今日ご紹介したいのは、シングルカットされた面影ラッキーホールの曲の中でも屈指のノリの良い曲『パチンコやってる間に産まれて間もない娘を車の中で死なせた・・・夏』です。
もう・・・タイトルだけで、頭抱えちゃいますね。曲のストーリーを少しだけご紹介します。
- 働かず暴力をふるう旦那と子育てに疲れた主婦の唯一のストレス発散が、パチンコでした。
- 30分だけのつもりが大当たり、7連チャン。
- 「車の窓は少し開けておいたんです」「ほ乳瓶は置いておいたんです」
- でも、車内で待っていた娘は・・・
ああ、もう、ダメだ。書いているだけで、ダメです。うわーもー! やめてー!! ってなります。最悪、最低です。
でも、でも・・・心が動くんですね。こんなヒドイ歌詞だけど、ヒドイと思うのは、それだけリアルだからなんですね。「あるかもしれない事」「ひどいんだけど、本当にあった事」・・・「これほどまでに悲しい人間の性」を綴った歌詞が、一昔前の歌謡曲っぽかったり戦隊モノだったりのノリの良いアレンジで歌われるんです、もう堪らないものがあります。
個人的には、アンダーグラウンドなバンドではここ10年最大の収穫ではないかと思います。上に紹介したような歌詞ですから、無論オモテに出てくることは無く、今日も密かに支持を受けています。今後もシリーズで面影ラッキーホールの歌世界について解説させていただこうかと思っています、物好きな方だけでも良いので、おつきあい下さい。
ちなみに、面影ラッキーホールというバンド名の由来は、初の国産医療用ダッチワイフである「面影一号」と、80年代に存在した風俗店の一種である「ラッキーホール」からだということです。どちらも「人間のダメさからの産物にも見えるし、人間そのものにも見える」ものだと思います。そもそもダッチワイフに「面影」なんて名前をつけた当時のセンスと開発者の想いのようなものを考えると、ダメさと切なさが混じり合った複雑な感情に苛まれます。
そんな名前を冠した面影ラッキーホールは、徹底的に人間の欲求とダメさと、その裏の切なさを歌う人たちです。理想に向かって今日も希望を胸に頑張る若者には分からないかもしれないけれど、ある程度年を取って後ろめたい事もして、自分の中にダメさがあることに気づいたオトナが聴くと、グッと来る歌。そんな歌を、昔は歌謡曲や演歌といったジャンルがカバーしてくれていましたが、最近はトンと聞こえてきませんよね。そんな「自分の中にダメさがあると気づいたオトナ」の人に、是非聴いて欲しいと思います。
個人的には、八戸を含めた日本の景気回復策として、パチンコ・スロットの全面禁止を強行すべきだと考えています。それだけこの業界は貧乏人から金を奪っているように思うし、警察との癒着など良いことがありません。でも・・・それでも、ダメなオトナが欲に目がくらんで数万円突っ込んで、挙げ句に負けてクサクサしている世界観も、キライじゃないんです。もちろん今回紹介した『パチンコやってる・・・』のような悲劇は起きてほしくはないのですよ、それは絶対です・・・でも、負けると分かっててもパチンコ打っちゃう人たちを見ていると、根っこのところで「人ってみんなダメなとこ、あるでしょ?」というところは共感できるし、切ない連帯感すら持ったりするんですね。
だからこそ、八戸でのパチンコ隆盛の様子を見ると、悲しくて、切なくて、面白いんです。
次回は最新のアルバムから、幸せを追求して生きる僕たちに強烈な問いを投げかける問題作「私が車椅子になっても」をご紹介します。新婚夫婦に訪れた悲劇を歌い上げるこの曲、もうタイトルだけで、ヤバイですよねぇ・・・
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