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コラム Archive

'10 09月02日 (木) 18時45分 : 地下鉄はどこから入れたのか? 八戸版

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「地下鉄はどこからいれたんでしょうね?」なんて冗談がありますが、上の写真の左の車、左は塀だし右は車だし、どうやって出すんでしょうか...

そんな事は放っておいて(きっと考えがあるのでしょうし)、今日はこちらの動画をご覧下さい。日体大の皆さんによる「集団行動」です。9分というちょっと長めの時間ですが...後悔しないと思いますよ!

'10 08月30日 (月) 23時26分 : 雲の屁理屈

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水玉の核を形成するチリの量だとか、温度だとか風の量とか向きとか...要素は色々ありますが、煎じ詰めて言えば、僕らが雲を眺めるというのは「空中の水滴の分布を見てる」と表現できます。水滴が少ないところは晴れに見えて、水滴が多いところには雲があるように見える。けど、飛行機で雲の中を突っ切るとよくわかりますが、雲の中って単純に視界が悪いだけで、霧の中のようです。

水滴が多いか少ないか、それだけの差で「晴れ空の青」と「雲の白」の違いが生まれます。

でも、繰り返しますけど、青と白...雲の有り無しの差は、あくまで相対的な水滴の量に由来します。どんなに晴れている空にだってどこかには(理論的に)水滴は存在するし、どれだけ厚い雲の中にだってたまたま水滴の無い空間は(理論的に)存在します。つまり、晴れ空という現象も、雲という現象も、中身は結局「水滴を微妙に含んだ空間」である事では共通してる訳です。

そういう視点で見てみると、1つ1つの雲は独立しているようで...実はつながっている、と言えます。僕らの目には「晴れ空の青」と「雲の白」とハッキリ違う色に見えていても、実は水滴の白が濃いか薄いかだけの差なんですから。

でもでも、やっぱり繰り返しますけど、僕らの目には青と白、くっきり違う色のように見えてしまいます。僕らの見ている雲はすべてつながっていると言えるのに、僕らの意識は違う色のように感じるわけです。

...え? いい加減理屈っぽくて聞いてられない?

スイマセン、その通りでございます。とにもかくにも今日の写真は、美しい八戸の海辺の空でございます。何が言いたかったかといいますと、散り散りの雲でも実はつながってるから寂しくないって思いながら写真を眺めると、感じるところがあるかもしれませんよ、ということなんでございます、ハイ。

'10 08月30日 (月) 00時05分 : 惜しまずの草原

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自然は魅力を出し惜しみしません。というか、そもそも「惜しむ」という概念がありません。「今日はちょっと青空の色をくすませてみようかしら」なんてイジワルなこと、空は思いません。ココロが無いから惜しむことも無い、と言えばニベも無いんですが、でも実はそれってスゲェ事でもあると思います。僕ら、ついつい何かしら小さなものを惜しむことが多いですからねー。

さて、ある人が言いました。

本当に魅力がある人は、魅力が知られることや知らしめることを惜しまない人だ。本当は自分には魅力があるけど惜しんで出していないとか、恥ずかしいから出していないとか、次のステップへ成長するために敢えて出さないとかいう人には、魅力なんて無い。
惜しまずに出すことは、魅力とほぼ同義だからだ。

ふむ。人を惹きつける魅力という掴み所のない能力は、実は「惜しまずに出す」ことによって裏打ちされている、という主張です。「惜しまずに出す」は、素直とか率直とか自然体といった表現に言い換えても良いかもしれません。

この主張は仮説の域を出ていません。しかし...僕は割とピンと来るんです、コレ。

なんというか、僕は人生を出し惜しみたくないんだと思います。僕自身の人生を出し惜しんでいたら、あっという間に終わってしまうように思うからです。すべての生命力を尽くして茂る草木でさえ枯れて死ぬというのに、もし僕が人生を惜しんでいたら、何もできないのではないか? なんて、思うんですね。

もし本当に、出し惜しみしないという姿勢が魅力を産むのだとしたら...自分自身から魅力が生まれる瞬間の感触を確かめることが出来たなら...よろこんでもらえるのなら。惜しまずに生きる草原に落ちる自分の影を見ながら、心のなかに芽生えた仮定形の願いたちが風に揺れるのを、感じたんです。

'10 08月27日 (金) 19時59分 : 横から風が吹く時は

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先日職場でiPadをいじってると、「成功者の失敗」みたいなテーマの本がpdf化されて入っていた。中を見ると、独立起業した人が遭遇する災難がズラリと書いてあって、ひやーオソロシイものじゃわい...と、アゴをスリスリしながら読み入ってしまいました。

まっすぐ前に力強く歩いていても、横風ひとつでグラついてしまうかもしれないのだな。

港町八戸の流通を支える八戸大橋を歩いていると、海からの横風が強く、前を向いて歩けないこともしばしば。でも、風に吹かれるままに目線を陸側に向けると、海に集った人々の作り上げた町並みが広がっています。新しい被写体を求めて前へ前へと進んでいく中で見落としていたやさしい風景に、横風によって気付かされるんですね。

横風が吹いた時は一旦立ち止まって目線を変えれば良いのではないか。そんな予想を、八戸大橋を歩きながら感じたんです。

'10 08月26日 (木) 21時03分 : 期待とは、あたたかい予想

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僕は小さい頃から、期待をコトバとして聞かされた記憶がほとんど無い。家族全員がシャイだったから(当時はそれにも気付かなかった)、期待に含まれている「実現しろよ、良いことしろよ!」という押し付け感を嫌っていたのかもしれない。食べ物の好き嫌いがあっても、靴ひもが結べなくても、クロールで25メートル泳げなくても、叱られたことさえあれど、期待された事が...無い。

これは良いことなのかなあ、よく分からないけれど。

唯一、酔っ払ったイトコのオジサンが、何か頭よさげなことをしたであろう僕に対して「末は博士か大臣かだな、ハハハ」と言ったのだけは憶えている。そもそも博士も大臣もよく分からなかったけど、悪い気分はしなかった。

でも、オトナになって色々な人の話を聞くと、案外「親から期待ばかりされて辛かった」という人が多くて、正直面食らってしまった。そんな人たちの感じたことをシンプルにまとめると、親からの期待が一種のイヤミのように聞こえたそうだ。「お前には出来ない事は分かってるけど、親の体裁があるからとりあえず『いつかは出来る』って言ってるだけさ、フン」なんて具合に解釈してしまうらしい。そのイラ立ちに、乱暴な態度を隠さずに自分の部屋に閉じこもってしまう事があったと、ある知人は言う。そんな記憶があるからこそ、今でも人から期待されるのはイヤだと、と。

うーむ。さすがにこれは、ちょっとさびしい感じもするけれど、受け取り方は人それぞれだから、仕方が無いのかもしれない。

僕は幸いなことに、期待されることをイヤミと感じることも無いし、今も誰かに期待されると、ワクワクしてしまう。僕にとっての期待は予想の一種みたいなもので、人から期待されても「お前には出来る可能性が十分にある」と言われているように聞こえる。期待とは、あたたかい予想のようなものだと感じる。

でも...世間では、期待をネガティブに受け取る人も多いようだ。となれば、これまでの僕はたくさんの人に期待を込めた発言をすることで、音も無しに傷つけてしまっていたのかもしれない。

車窓の夕暮れを眺めながら、そんな事を一人思う。僕がこれまで誰かを傷つけてきたことをすべて把握することは出来ないのと同じように、夕闇に紛れている色をすべて数え上げることができないだろうのに、それでも僕の目は夕闇の中を彷徨う。僕は僕自身に期待している、夕闇の色をすべて知る事は可能かもしれないと。

夕日はあくまでもあたたかいけれど、今にも消え入りそうだ。

'10 08月24日 (火) 23時04分 : 誰にでも出来る事

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写真は、対象から価値を見つけ出して切り出すことだと思うんです。

上の写真は、僕が撮ったものではありません。大きなカメラを持つのが初めて! というような子が撮影した夏のあじさいです。ふっくらと柔らかな雰囲気が、写真からにじみ出ています。それはまるですべてを許しているような咲きぶりに感じます。すべてを許すような感情はなかなか沸くものではありませんが、僕はこの写真からそんな感情を受け取ることができました。

価値を生み出すのは、誰にでも出来ることです。僕がカメラを手渡すのと同じように、何かしらのきっかけさえあれば、誰だって出来ます。それはカメラのような手触りのあるモノかもしれないし、コトバかもしれないし、ココロの中のきっかけかもしれません。でもとにかく、誰だって、価値を見つけ出すことは出来ると思います。

一見平凡な風景から、価値を見出す。それは決して、世界の見方を変えるだけではない、この世界の中にある価値が実際に増える行動だと思うんです。繰り返しになりますが、それは仮に抽象的に見方を変えるんじゃなく、本当に具体的に世界が変わるんです。

そしてそれは、やろうとした人なら、誰にでも出来ることなんです。

'10 08月23日 (月) 22時57分 : フォトグラファーズ・ハイ

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「ランナーズ・ハイ」もあるけれど、「ウォーカーズ・ハイ」もありますよね。歩く歩く→ヒーハー! っていう状況、ありますよね。

僕はカメラを抱えて八戸を練り歩くのが趣味なので、車で行く人たちに好奇の目を向けられることもあるんです(なんせ汗だくでデカイカメラ持って歩いてますからねー、興味を持つのも当たり前ってものです)。そりゃー、僕だって恥ずかしいと思うこともあるんですが...でも、ある時パチンとスイッチが入ると、人の目なんて一切気にならなくなるんです。自分自身の体重や重心の移動をスネとモモと腰に感じながら、目に見えるすべてのものに興味を向けられるような、自分自身がよく出来た撮影サイボーグになったかのような感覚が得られる時が...あるんです。

僕はそれを「ウォーカーズ・ハイ」の特殊版として「フォトグラファーズ・ハイ」と呼びたいと考えてます。実はこの瞬間が来たからといって写真の質が上がる訳ではないのですが(後でガッカリすることもしばしば)、撮影された写真という「結果」ではなく、撮影を楽しみながら歩くという「過程」自体が楽しくて、ついついまた撮影に出てしまいたくなるんです。

ついでに言えば「サイクリング・ハイ」もありますよね。自転車こぐこぐ→どうかしてるぜ! って状況です。

いずれにせよ、何かしら「歩く」という単調反復作業には、僕らの脳のスイッチを押すチカラが備わっているようです。歩くの、良いですよね。僕、八戸を歩くの、好きですよ。

(このエントリーの内容とブラックマヨネーズは、一切関係ありません。あしからず)

'10 08月22日 (日) 14時39分 : 日本一荒々しく携帯をチェックする若者

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名勝・種差海岸でのヒトコマです。

不肖・私がカメラを携えて歩いておりますと、波際の岩山にかの方の姿を見出したのでございます。この御方、金髪にハーフパンツのみという姿で、岩山のてっぺんで携帯をチェックしているのでございます。そのあまりの荒々しさに、私は身をかがませながら、思わずシャッターを切ったのでございます。

すげーなぁ。正直、ちょっとカッコ良かったもん。

'10 08月20日 (金) 22時39分 : 群れと群れが交わる光景

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蕪島に行くたびに「すげー大群だなぁ!群れてるなぁ、ウミネコ!」って思ってたんですが、よくよく考えてみたら僕らニンゲンも群れてますよね。蕪島のウミネコが約4万羽とも言われているのに対して、八戸市の人口は24万人ですもんね。

写真は、三隻の漁船の帰港に舞い上がるウミネコの群れです。

言わば、群れと群れが交わる光景です。

'10 08月19日 (木) 22時37分 : 草原と希望

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ロールプレイングゲーム、と言われるゲームのジャンルがあります。例えば「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」なんかが有名どころなんですが、仲間と一緒に冒険して、敵を倒し経験を積み、世界平和を脅かす巨悪と戦う...という感じのゲームです。比較的男の子が好んで遊ぶタイプのゲームなんですが、面白いことに、スタート地点となる町や土地はほとんど草原に囲まれています

どうしてでしょうか? それはきっと、ゲームのスタート=冒険の始まりでは、プレイヤーに希望を感じて欲しいからではないかと僕は考えています。家族がいて、美しい自然があって、守るべき土地としての故郷の意味や感慨をプレイヤーに感じて欲しいからこそ、スタート地点となる町や土地は、およそ青々とした草原に囲まれているように思うんです。スタート地点となる故郷が美しいからこそ、そこを離れる寂しさと冒険へ胸高鳴らせる希望が表裏一体になって、プレイヤーの心を包むのでしょう。

草原は、希望を象徴しているのかもしれません。

八戸は古くから競走馬の牧場が多く、古くは南北朝時代から現代まで、数多くの優駿を輩出してきました。そんな土地だからこそ、草原は八戸のアイコンの1つでもあります。多くの名馬がこの土地で生まれ、草を食んで体を造ったことでしょう。草原が希望を象徴しているのなら、草原で生まれ草を食べた名馬たちは、希望そのものかもしれないとすら思えます。

現代では僕らの足は馬から自動車へと変わりましたが、自動車に乗って草原を渡る時の気持ちになぜか希望が溢れるのも、うなずける話というものです。

'10 08月15日 (日) 13時23分 : バランスさえ生まれれば

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僕はかなり気分屋でだらしないところがあるんですが、人にはあまりそう言われません...逆に「いつもキチンとしてるっぽい、A型っぽい」と言われます。

そんなことないんですよ、実際。

きっと僕は、外にいる時と内(うち≒いえ)にいる時で、気持ちが切り替わってるんです。外にいる時の「キチンとしたふりの僕」も、内にいる時の「気分屋でだらしない僕」も、両方が間違いなく僕自身です。さらに言えば、外の僕も内の僕も、ずーっと続けるのはシンドイんです。今は外っぽく、飽きたら内っぽく...といった具合に、揺れながら暮らしているのが本当のところです。

つまり、僕という性格は画一的ではなく、四方八方に伸びている心のつるや花や実や葉っぱが微妙なバランスを取りながら、しかも風に揺られながら、全体として僕になっているように思います。

この世界にも僕自身の中にも風が吹いています。昼と夜という明るさの変化があって、四季という暑さ寒さの変化があって。仕事とプライベート、給料日前と後、健康と病気、お腹ペコペコとお腹いっぱい、欲求不満と満足、別れと出会い、新鮮さと飽き、眠い眠くない。そして、なんだか幸せだったり、なんだか幸せじゃなかったり。

この振動が止まるまで、僕らはきっと揺れ続けなければいけないのでしょう。

でもそれらは、あくまで「あっちからこっちへと繰り返し揺れている」ものです。あっちに行ってしまったと思っても、いつか戻ってくるものです。バランスの向こう側へと致命的に倒れてしまわないように、不恰好でもバランスを取りながら、時間を過ごしていかなくてはいけません。

苦笑いしながら、であっても。

'10 08月06日 (金) 11時16分 : みんなで同じ空を見る

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田舎の空って、やっぱり抜けてますよね。

八戸の中心街って、全貌が把握できるぐらいコンパクトにまとまってるからこそ、市民全員がこの風景とこの空を共有できてるんですよね。だから、きっと上の写真だって、誰もが見たことがある光景なんだよなーって思うと、ちょっとうれしいです。

商品企画を仕事にする者として、またサラリーマンとして、1つのテーマに関係する人々が同じコンセプトやイメージを共有していることの大事さを痛感しています。言葉にはできなくても、みんなの気持ちがひとつになれる景色や色合いがあることは、ひとりではなく家族や共同体で生きることを選択した人間にとって、本質的なことであるように思うんです。

'10 08月03日 (火) 09時07分 : 田舎の朝の考え事

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思う、考える、悩む、想像する、妄想する、耽る・・・サラリーマンとして都会で仕事している間、頭の中でいろいろとイメージを巡らせる作業は夜に行う頻度が高いことに思い当たりました。なぜなら、生まれ故郷・八戸でのんびりと日々を過ごしていると(それでも今回の帰省は割とバタバタしてるんですが)、その頻度が逆になるからです。

すなわち田舎での僕は、家のことや一日の準備を朝に済ませてしまって、朝から夕方まで動いたら、夜は何もせずのんびりしています。今日一日のことのみならず、明日のことまで今日の朝に考えてしまいます。そして、涼しい朝の間に色々やってしまいたくなるんですね。そうやって朝セカセカと動きながら考え、そのかわり夜はただボンヤリと虫の音でも聞きながら家族や友人と語らうだけ。夜はまったく生産的ではありません。

朝に生産して、夜に消費する生活。先んじて生産する生活を行うのは、実は非常に気が楽です。なんせ、先に生産してしまいますから。あとは、それを使いながらのんびり過ごしているだけで、次の日が来るんですから。昼間に消費したものを改めて生産しなければ寝られない夜よりも、作ったものを消費するだけの夜のほうが楽なのは、すごく簡単な理屈ですよね。

僕も良い年になって「毎日これぐらいは『結果』を残したい」と思うようになりました。残された日々を有意義に過ごしたいと思うわけです。その作業を朝に先取りして行なってしまうのと、夜にギリギリ終わらせるのとでは、どっちが楽か。田舎独特の「朝動いて、夜休む」生活リズムは、もしあなたが「『結果』を残したい」と思う人であればあるほど、有効にはたらくような気がします。

人間本来の生産と消費のスタイルは、上に挙げたような田舎の生活リズムであるような気がするんです。

'10 07月31日 (土) 08時34分 : 冷却装置としての東北

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個人的な感覚では、東北から北でしか「夜は涼しくなる」という基本的な原則は守られていないと思うんです。東京でも、北陸でも、関西でも、僕は「絶対に寝れない」クラスの熱帯夜を経験しましたけど、八戸のそれは「眠ければ寝れる」といった程度です。この時期、東京以西の方が聞くと驚くかもしれませんが、マジでクーラーは必要ありません。

「扇風機を付けると気持ち良いけど、お腹冷やしちゃうかな?」と逡巡するぐらいなんです。

したがって、東北以北ではクーラーは「贅沢品」としての性格を残しているし、東京以西でのクーラーは「生活必需品」としての立ち位置を確保しているわけですね。

世界は、昼には勝手に暑くなり、夜には勝手に冷める。そんなシンプルな原則を発揮できるのが東北の大きな魅力です。東北は夏の盛りであっても冷却装置としての性格を捨てることなく、毎日のサイクルを頑強に守り続けています。

ことに港町八戸にあっては、山と海はせめぎ合い、波は岸壁を打ち、夜は昼間のじりじりとした暑さと一緒に僕らの心と体から発生する過剰な熱量も吸い上げてくれます。まるで、熱量を発生させる太陽を「温める太陽」と呼ぶとすれば、それとは真逆の性質を持つ「冷える太陽」が浮かんでいるかのような、そんな夜を東北は毎晩迎え入れているように思えます。

'10 07月30日 (金) 00時06分 : 夏のセメント

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もはや八戸セメントさんの建造物は、八戸のランドマークですね。八戸が自らの力で築港できる能力を有している理由の一つはセメント工業が発達していることですし、極太のパイプが奇妙にねじくれた巨大建造物は否が応にも目を引きます。

上の写真はそんな八戸セメントさんの建造物を八戸大橋から見たもので、意外と見たことが無い方も多いかと思います。手前には小さな高台となっている館鼻の森が青々と茂り、鳥の群れが暑さを切り裂くように横切っていく。そんな中で、ただ黙々と作業をしているのかいないのか、じっくりと立ちすくんでいる八戸セメントさんの工場。港町であることの証明と誇りが、色づいた夏の光に照らされ輝いているようです。

セメントは、決して派手な素材ではないかもしれません。しかし、それは確かに港町というシステムの一部を成しています。港の光景を支配するコンクリートは、セメントを材料とします。その灰色は決してキラビヤカなものではありませんが、逆説的な形で港町の活気や美しさを象徴している存在なのかもしれません。

すなわち、コンクリートの静かな灰色があるからこそ、夏に輝く海の色が映えるんです。

'10 07月28日 (水) 22時00分 : 飛び出せ!(うみねこの)青春

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日本で唯一人が足を踏み入れて間近で生態を観察できるウミネコさんの繁殖地・蕪島では、地面がウミネコさんのフンでいっぱいです。大抵は白いフンで、健康で規則正しい生活をしている(であろう)ウミネコさんは白いウンチをします。この白いフンは服に付くと厄介ではありますが、さほどニオイもなく、ひっかけられても「あーもぅ!」ぐらいのリアクションで済みますので、ご安心下さい。

一方、時々...「大当たり」のフンをする奴がいるんですね。そのフンの色は「赤」。文字通り大当たりな感じがするそのフンは...非常にクサイ!おそらくウミネコさんなりにお腹を壊した時のフンではないかと勝手に想像しています。きっと不健康で乱れた生活をしている悪い子なのではないか。そのフンは見た目も悪いしニオイは強いし、ひっかけられると「あーもぅ!」「...」「...あぁー、もーっ!!」ぐらいのリアクションになります。カメラを提げて一人で怒っているヤツがいたら、「アイツ、当たったな...」と思って下さい、けっこうな確率で僕ですから。

ところで、そんなフンなんぞ関係ないと言わんばかりに、地面スレスレまでカメラを下ろして撮影したのが上の写真です。毛並みも美しい若い成鳥が、地面をスタスタ歩いたり(これがまた絵に書いたような「スタスタ」なんです)、ピョンピョン飛び回ったり、ケンカしたり鳴いたりしています。きっとコイツら、毎日健康的な白いフンをしてるんだろうなぁ...と思えるような、120%健康体の彼らが、少しだけうらやましく思えます。

...青春なんだなぁ。

かっぱえびせんにダッシュで突っ込んで来るウミネコさんたちの素直さは、少なからず僕らを癒す力があるように思うんです。それはまるで、僕らが子供や若者を見ている時に感じる希望のような感覚に似て、屁理屈無しに僕らの心に直接響いてくるような気がします。

'10 07月28日 (水) 00時23分 : 昼寝、海から3センチメートル

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八戸港では予想以上に珍しくない、岸壁で寝る人でございます。

館鼻岸壁は日曜日、夏の朝市は気温もグングン上がり、北国の早朝なのに汗をかく始末。そんな中、出店とお客さんが群がる区域の喧騒から離れた海のそばで、堂々と寝ているおじさん。微動だにしないおじさん。汗もかいてないおじさん。朝市なんてどこ吹く風なおじさん。海まであと3センチなおじさん。ちょっとだけ神々しい雰囲気すら漂う、おじさん。

...寝返り打ったらどうなるんだろうね、おじさん?

なんてヒドイ事は、誰も期待していない点にご留意下さい。

'10 07月27日 (火) 00時14分 : 暑さを消す

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暑いですねー。あまりの暑さに困りものの夏ですが、逆に考えると「涼しいのが一番気持ちいいのは夏」とも考えられるわけで。こんな屁理屈ではひとつも涼しくならないかもしれませんが...

とはいえ、暑さを耐えながら景色にじーっと目を凝らしていると、かすかに涼しさの気配を感じることが出来る時があります。それは、写真を撮っている時です。現実の世界の中にいる僕は気温を直接肌に感じることが出来ますが、ファインダーの中のもう一つの世界には温度がありません。カメラに映る世界は、ある意味で温度という概念が消えてしまっている視覚だけの世界だからです。

上の写真を撮影している時も、うだるような暑さに汗を吹きながら、濡れるTシャツの重さを感じながらの撮影でした。しかし、出来上がった写真からは、夏の青草のさわやかさにうずもれて静かに時を過ごしているサッカーゴールの穏やかさのようなものばかりが感じられて、すっかり温度は消えてしまっているような気がするんです。

温度を伝えたい写真もあるし、温度が消えてしまう写真もあります。そんな自由さを持つからこそ、撮影は楽しいのかもしれません。

'10 07月25日 (日) 22時29分 : 甲子園に行った話

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僕は一度甲子園に行った事があります。在校生応援で。

クラスのメンバー全員でゾロゾロゾロと甲子園のスタンドに入っていくんですが、まず驚いたのはその狭さ。甲子園=高校野球の殿堂=デカイ!と思い込んでいたからなのか、普通の広さで驚いてしまいました。考えてみれば、球場によって広さがコロコロ変わっていたら野球も出来ないって事ぐらいわかりそうなものなんですが、世間知らずだった高校生の僕はそれぐらいのぼせ上がっていたんですね。

結局チームは一回戦で関西勢にアッサリ完封されてしまったんですが、こんな舞台で野球をやってる事自体が尊敬できて、応援もやってるうちに熱を帯びてきて(僕の高校には独自の応援歌や踊りがたくさんあって、恥ずかしい部分もありましたが総じて楽しかったです)、カチ割り氷はおいしくて(本当にただの氷なんですね、アレ)、甲子園を満喫した夏でした。

野球に青春を賭ける。言葉で表現するとカンタンですが、それを実現するのは大変なことです。誰がメシを食わせてくれるのか、誰が洗濯してくれるのか、誰がお小遣いをくれるのか。他にやらなきゃいけない事は無いのか、心配事は無いのか、集中力が続くのか。そんなこと、当の高校生自身も分かってるんです。それでも、野球に青春の一時期を注ぎ込もうと決意して、失敗を恐れず進んでいく。

今年の夏の甲子園出場校青森県代表は、八戸工大一に決まりましたね。

未来も過去も現在も、すべてをかなぐり捨てて白球を追いかける高校生たちのひたむさに立ちはだかる、一度でも負けたら青森に帰れという甲子園の冷たいルールと、一切手を抜かない強豪校達。浮かんでくる顔...家族、友達、好きな女の子に胸で逆転を誓う劣勢も、逃げきりたいけどイヤな事が思い浮かぶリードの時もあるでしょう。そして最後には、スコアボードとサイレンは冷酷に結果を告げるでしょう。

勝ちだろうが、負けだろうが。

まるで夏が終わるかのように、避けようもなく結果はやってきます。そして彼らは、避けようもなく大人になっていきます。勝ちだろうが、負けだろうが、彼らは大人になっていくんですね。高校球児たちが一回り年下になってしまった僕は甲子園を眺めながら、そんな風に避けようもない運命を戦う若者たちを想います。僕は甲子園には出なかったけれど、それなりに大人になった者として、心の底から彼らを応援したいと思います。

'10 07月24日 (土) 20時52分 : 夕立を浴びる大人たち

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僕は何を隠そう、良い年の大人でありながら、夕立を浴びるのが大好きである。

夕立を浴びるのが好きになったのは、住宅街から山に近い実家へ引っ越した直後のこと。雨粒と雷鳴を聞きながら窓の外を見ると、いつもは平らな地面なのにクネクネと水流が曲がりながら流れていて、窓の外の手すりでは大きな雨粒が白くはじけている。

「浴びでくればいがべ(浴びてくれば良いじゃないか)」

と誰かに言われて(誰だかは憶えていないけれど、おそらく祖父だと思う)、Tシャツに短パンにビーチサンダルの姿で外に出た。はじめて服を着たまま雨を浴びると、なんかおしっこを漏らした時のような居心地の悪さと恥ずかしさを感じた。でも、そのまま空を見上げると、顔を打つぬるい雨粒が気持ちよくて、頭がクラクラするほど気持よかった。

すっかり雨が上がってしまうと、ずぶ濡れの服を脱ぎながら誰かに頭を拭いてもらう(おそらく祖母だと思う)。誰かが僕に笑いかけるのが聞こえる。

「雨浴びだすけ、風呂さ入らなくていいな(雨を浴びたから、風呂に入らなくても良い)」

...そんな少年時代の思い出を持つ僕は、当然のように雨を浴びたい大人になった。でも、あまり大人で雨を浴びている人はいないから、こっそりとチャンスを狙っている。大人になると、ポケットには携帯電話やらタバコやら財布やらが入っているし、カバンの中にはパソコン・デジカメ・本なんて濡れちゃいけないものがいっぱい。そんなのを放り投げて、ただ雨に打たれてみたいと思いながら、雨を眺めているのが僕です。

雨の日の喫茶店、ファインダーを覗くのも忘れて雨を眺めている男がいたら、それは僕かもしれません。

'10 07月23日 (金) 20時07分 : 破れた羽の軽さ(あるいは重さ)

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海沿いを歩くと、ウミネコさんの羽に出くわすことがあります。ただ抜け落ちたのか、それともケンカか、ケガか。理由は分からないけど、それはそれは立派な羽を拾い、しばらく見とれることがあるんです。逆にボロボロの羽を拾うこともあります。ウミネコさんにエサをあげたりして観察すると分かるのですが、若い鳥ほど毛並(羽並?)がキレイで、年老いたものほど全身ボロボロです。

ニンゲンと同じですね。

ウミネコさんたちは何のてらいもなく、ただ真っ直ぐに生きて、必要な食料や本能的な繁殖の代償として、自らの身体を使うんですね。一方、僕らニンゲンは色んな方法でお金を稼いだり食べ物を食べたり家族を養ったりできますが、でも結局、それらすべては体から生まれている。だからこそ、若い体を見ると無制限の未来に胸が躍るし、年老いた体を見るとその苦労と成し遂げたことの大きさを敬いたくなるのでしょう。

ところどころ破れたウミネコの羽を両手で抱えると、その軽さとは正反対の強い何かが、胸に温かい一筋を描きます。

'10 07月20日 (火) 21時45分 : 朝市の主役

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当たり前の話ですけど、朝市っていう言葉をよく見ると「朝」と「市」から出来ています。朝市好きな八戸市民の皆さんは当然「市」というイベントに出かけるわけですが、実はそこで楽しんでいるのは「市」だけではなく「朝」であることを、忘れてはいけないように思います。

一日の始まりで、まだ昼も夕方も夜も残っている。前の日の疲れも消えて、早起きをした充実感が体中に湧いている。暑さも影を潜め、さわやかな風が吹いている。光は白々と辺りを包んでいて、すべてが祝福されているかのように輝いている。

朝市の主役は「市」でもあり、「朝」でもあるんですね。

仕事で忙しい生活が延々と続く時期があったり、体調がどうにも戻らない日々がくすぶり続けていたり、昔からの悩みを未だに抱えて暮らしていたり...。そんな人でも、朝市でのんびりとコーヒーでも飲んだり、お蕎麦をすすったり、ウミネコさんと遊んだりして欲しいなぁって思います。朝市の「朝」のほうがコッソリと効いてきて、束の間は悩みから解放されたような気持ちになれるかもしれませんから。

結局は消えない悩みを抱えているのが僕たちだとしても、朝は24時間おきに必ずやってきます。朝は世界を一度リセットします。自然はそんな風にして、美しいこの世界を保ち続けてきた訳です。ならば、僕たちも自然の一部だとするのなら、朝にリセットするのが当たり前というものではないでしょうか。

朝市の主役は「市」でもあり、「朝」でもあるんです。

'10 07月18日 (日) 00時36分 : 目に見えないけど写真です

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物事の具体的な良さって、たいていは目に見えないと思っています。例えば写真はそのものズバリ視覚に訴えるものですが、写真の良さ自体は「見えていない」場合が多いというのが僕の勝手な考え方です。偉そうでスイマセン、でも、「この写真、なんとなく好き!」なんてこと、よくあるじゃないですか?

つまり、その人には「写真の魅力」は見えていても「写真の具体的な良さ」は見えていないわけです。

「なんとなく良い写真が欲しいから、感覚的に撮る」というアプローチと「良い写真とはこういうものだから、理論的に撮る」というアプローチは両方成り立ち得るとは思うのですが、特定の誰かではなく「世の中の人一般」を想定すると、感性だけでも理論だけでも立ち行かないように思います。

...そんなことをぐだぐだ考えながら、キレイな香水のビンを眺めていました。香水の本質は、目に見えない香りという現象を創りだすことです。そんなものが高い値段で売られているのが僕やみなさんの生きているこの世界な訳で、よくよく考えると改めて不思議なものです。

'10 07月17日 (土) 09時03分 : 音楽も聞こえない白い朝

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超多忙のためお写真のみの更新でご容赦下さい。写真は八戸中心街の朝です。八戸の中心街は日中必ず音楽やアナウンスが流れているんですが、それもまだ流れていない静かな町です。車も一台一台のエンジン音が聞き分けられるほどにしか走ってませんし、歩く人もまばら。朝の光は白く、空は青く抜けている。

とてもおだやかに、時間は流れます。

'10 07月15日 (木) 23時51分 : 心から、祈るだけ。

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AかBか、赤か青か、◯か×か。どちらかを捨て、どちらかを選び取らなければいけない二者択一の場面で突き当たるのは、本当に大事なことは何かということ。僕らはそういう場面で、自分の命とかシアワセとか家族とか健康とか友人とかお金とか仕事とか、そういう事を考えます。一方で、そういう大事な時こそ、より一層迷いが生じてしまうのも僕らというものかもしれません。素直になるのか意地を張るのか、当たるも八卦当たらぬも八卦、神様じゃ足りず仏様、電話にメールにインターネット。どれだけやっても、自分の選択が正しいことを100%保証してくれる人は...いません。

選択が正しいことを、心から、祈るだけ。

ただ立ち尽くすだけのそんな時、案外ウミネコさんを眺めるのは良いことです。彼らは僕らと同じ世界に住みながら、僕らよりもずっとシンプルな生活をしていますから。何が大事で何が大事でないのかを、ウミネコらしく軽々と飛び越えていく存在ですから。

ウミネコとして生きる事は、もしかしたら祈ることに似ているのかもしれません。心が一直線に未来を向いていて、ただ心の内側から突き動かされるだけの、一筋の光のような現象だと、思えるんです。

'10 07月14日 (水) 21時21分 : 坂の向こうに何もないということ

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都会に住むと坂道が地平線に消えていく光景がなかなか見られないので、上の写真のような場所に「田舎性」のようなものを感じてしまうのですが、この辺りの機微を伝えるのには難儀してしまいます。

だって、ただの坂道ですもんね。

でも分かってもらえたらうれしいと思うポイントは、こんな坂は都会には無いということです。坂の頂上で地面が切れていて、その向こうが見えず、ただ空だけが広がっているような場所なんて、都会にはありません。都会なら、大抵ビルや住宅が空を牛耳ってますからね。

都会には色々お店とか楽しみがあって良いねぇ、なんて言われる事が多いですが、都会暮らしを続けている僕から見ると田舎にしか無いものがたくさんあって、そんなすれ違いはけっこう切ないものがあったりします。

坂道の向こうには、空ばかり。さわやかさと不安感が入り交じったこの光景に、どんな名前を付けたら良いのだろう?

'10 07月13日 (火) 21時18分 : 60000枚の憂鬱

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夏の暑い盛り、いくら歩きまわっても欲しい写真が撮れない時があるんです。

そういう時は、ヘタに構図を工夫したりレンズを替えてみたりするよりも、無心にシャッターを切り続けると良いことが多いことを、僕は経験上知っています。

上の写真はその典型で、暑さや疲れや、思い通りの写真が撮れないことにぐったりしていながらも、バシャバシャ撮っていた写真の一枚です。おそらく僕の必死にモチーフを探す態度が、この時には「曲がり角の向こう」へと目線を向けていたのだと思います・・・今になって見返すと、大量の「小道の向こう側」の写真の山が出来上がっています。

何を撮りたいのかは、その時には分からない事が往々にしてあります。僕の気持ちが定まっていないんですから、良い写真なんて撮れる訳ありません。さらに言えば、僕が撮った大体の写真は迷いながら憂いながら撮ったものだと言ってしまって良いかもしれません。けど、逆説的に上の写真のように「必死にモチーフを探す僕の気持ち」が写り込んだりして、それが写真をよくすることがあるように思います(あくまで僕にとっての話で、皆さんにそれが伝わるかは別の話ですが)。

僕の手元には、約60000枚、八戸の写真があります。それらすべてに僕の気持ちが宿っているのかもしれないと思うと、大したものだと感心するやら恐ろしいやら。

夏が楽しみです。僕の気持ちをフィルムに焼き付ける、あの強い日差し。

'10 07月12日 (月) 21時03分 : 誰にも記憶されないもの

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僕がこうして八戸を離れて家でパソコンに向かっている間も、八戸の海辺では無数の波が岸辺を洗っていて、神秘的な泡の配列が生まれては弾け、潮騒が響いているだろうのに、それは誰にも記憶されない。

上の写真の波も、もはやこの世には存在していないし、写真を撮った僕ですら正確に思い出すことは出来ない。

波は、誰にも記憶されないものの代表格と言えるかもしれない。そして波に囲まれた港町は、ただ時代を通りすぎていくモノやヒトの記憶も波にかき消されていく場所のように感じます。

港町で生まれ港町に心の根を張った僕が、そんな波に洗われながら生きていくのだとしたら、最後にはいったい何が残るんだろう?(切ない事書きすぎですよね、あはは)

'10 07月11日 (日) 13時24分 : 海とタンポポ:作品2

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海辺の堤防に根を張った一株のタンポポをモチーフにした作品の2つ目は、前エントリの賑やかなものとは正反対の、一輪だけのタンポポです。曇天、やがて荒れる気配も見せる海を前に、ただ押し黙っている消波ブロックに話しかけることもなく、ただじっと何かを待っているように見えます。

しかし、よくよく見てみると、一輪咲いているタンポポの花の右側に、つぼみが1つ顔をのぞかせています。...そうか、恋人を待っていたのか。

'10 07月11日 (日) 06時41分 : 海とタンポポ:作品1

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去りゆくタンポポの季節を惜しみつつ、海辺の堤防に根を張った一株のタンポポをモチーフにした写真を2つご紹介。1個目の作品は、草の額縁に彩られた元気なタンポポ一家といった風情をどうぞ。

一家は今、みんながみんな健康で、穏やかに日々を過ごしているように見えます。やがて綿毛になるまでの間、北国の束の間の春、穏やかに凪いでいる海...そのやすらぎは刹那の一刻かもしれないけれど、きっと一生を支える思い出となることでしょう。

'10 07月11日 (日) 00時06分 : 季節を乗り越えて

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栄養が無い土でも育つと言われ、砂だろうがコンクリートだろうが構わず逞しく花を開かせるタンポポは、温かい気持ちを失い立ち止まった時でもやがて心の奥にジワリと湧き上がる小さな熱量に似ていて、だからこそこれからも季節を乗り越えていこうと思うのです。

'10 07月10日 (土) 16時26分 : デコボコで不器用なジェットコースター

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八戸市の中心街から郊外へのグラデーション、長者から根城へと抜けていく、輪を描くように下り登る幹線です。

ジェットコースターのように下り、てっぺんにまでたどり着くと、そこから見下ろせるのは郊外の穏やかな丘陵や平野と、八戸藩を興した人たちが残した城跡。向いにはパチンコ屋さんがあり、近くには美味しいお惣菜屋さんとか、八戸で最高と言われる鯖の棒寿司を出すホテルとか、古墳とか、裁判所とか、浄水所とかがあります。

その道は、ジェットコースターのように流れていくけれど、町の成り立ちはデコボコで不器用だ。

案外、僕も一緒かもしれないな、って思います。今まで生きてきたのはジェットコースターのようだけど、僕の中身はデコボコで不器用だ。

'10 07月09日 (金) 19時41分 : 僕も電信柱も結局は海にこぼれていく

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上の写真、別にカメラを傾けて撮ったわけではないんです。海辺の道ではよくある事なんですが、海側の土が削れてきて、ガードレールや杭や電信柱が海側に倒れてしまうんですね。それはまるで、僕たち陸上に住むすべての生き物もすべてのモノも、結局海の中にこぼれてしまうようにも思えます。

結局、僕らがこぼれていってしまう場所。そこが海である事に、僕は何ら不満はありません。

'10 07月08日 (木) 20時48分 : うみねこブロマイド:ジェネレーションギャップ

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凛々しく睨みを効かせる青年ウミネコくんと、すっかりリラックスしてとろんとろんに眠りこけている大人ウミネコさん。僕らニンゲンに比べてウミネコたちの寿命は短いけれど、そんな中にもきっと子供時代があって、少年時代があって、青年時代があって、壮年時代があって、老いていくのだろうなぁ。

それにしても、左の大人ウミネコさんのだらけっぷり...大福みたいになっちゃってもう..クッ(笑いを堪えている)...青年ウミネコくんに怒られちゃうよ!!

'10 07月07日 (水) 20時05分 : 車から撮るか、歩いて撮るか?

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青森県八戸市は車社会の町で、車がないと日常生活に支障をきたすぐらいに、車は生活必需品です。でも、僕は免許がないので、田舎に帰るといつも誰かの車に載せてもらう事になります。情けない話である事は分かってはいるんですが、都会暮らしでは公共交通機関と自転車が便利すぎて車を買う気持ちには到底なれないし、そもそも駐車場代も税金も高いし、元々車自体に興味が無いので...そもそも買うつもりになれないのです、ハイ。

そんなこんなで、誰かの車に「ごめんね、ありがとうね」と言いながら載せてもらうのですが、車の窓越しに撮影する写真に妙な魅力がある事に気づいたのは、数年前のことです。

なんで、車からの写真には妙な魅力があるのだろう?

小さい頃から車社会の町で育つと、必然的に毎週のように車に乗って、車窓から街並みを眺めます。広い土地に商業地が散っている町なので、そもそも徒歩で買い物にいくことがありません。つまり、八戸の大半の人は、家やよく行く場所以外の街並みについては「歩きながら見た」よりも「車窓から見た」ほうのではないか? と推測されるわけです。同じ景色でも、歩きながら見るのと車から見るのでは、まったく異なります。僕は、子供の頃に車の中から見た八戸の街並みを無意識で思い出していて、それが魅力になっているのかもしれない...と、推測したんです。

小さい頃買い物に連れて行ってもらった思い出に触れる、車窓からの写真。歩いてみて初めて分かるディテールと雰囲気を掴みとる、歩きながらの写真。

写真撮影のコツとして、カメラや機材の選び方とか露出・絞りとかいう条件が普通挙げられますが、「車中か、徒歩か」という条件を考えてみると、面白いかも? と思います。「なんでこの写真、俺にとっては魅力的なんだろう?」って不思議に思ったときの答えの1つは、もしかすると「車から撮影したから」かもしれません。逆に、以前当サイトの写真を評して「八戸の逆輸入」と言ってくださった方がいらっしゃったんですが、八戸の方が当サイトの写真を見て「八戸って、こんな感じだっけ?」と思われた場合、もしかするとその写真が徒歩で撮影されたからかもしれません。

いずれにせよ、撮った時の僕の目線が写真には暗に写っていて、その時の目の位置からおおよそ僕が何を撮ろうとしているのかが分かります。それは、おそらく過去の僕か、現在の僕のどちらかです。

僕がカメラを構える時、少年の頃の僕もまたカメラを構えているのかも、しれません。

'10 07月06日 (火) 19時35分 : そのままでいい猫さん(と、僕が褒めたい人)

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大好きなサイト・ほぼ日刊イトイ新聞の連載が面白い。具体的に言うと、歌手・前川清さんの正直っぷりが、本当にすばらしい。

前川清さんは言います(連載7回目の前川清さんの発言を僕なりにまとめています)。

不眠症で薬が無いと寝られないのに、コンサートの5分前のベルが鳴ると眠くなる。
他の歌手ほど歌が好きではないし、歌が100%自分の仕事ではないという感覚がある。そもそも、大変なことはしたくない。
例えば、新幹線で東京から大阪まで行く時、早く眠くなればよいのに、京都辺りで眠くなる。やらなきゃいけないことが目の前に迫ると、逃避したくなる。僕はそういうニンゲン。でもそんな時は、「金、金、金」と思ってがんばる。金のためにやってるんだ、と思って、一生懸命になる。

人って大抵こういうところがあると、僕は思います。中にはバイタリティと正義感と責任感に溢れて自発的な日々をすごしている人もいるだろうし、そういう人を否定するわけでもないけれど。でもでも、正直なところ、圧倒的多数でポップな感覚は上記のような「逃げたいけど、金が欲しいからがんばる」というメンタリティだと思うんです。

すごくやる気が出てグイグイと何でもやれる時もあれば、もうどうしようもなくて家に引きこもってるしか無い時もある。ポイントは、どうしようもない時を否定するのではなく、「どうしようもない時もあるけど、頑張って生活を続けていること」を、評価できるかどうかではないかしら。そうやってドーニカコーニカでも何十年生きていたら、家族や友人ぐらいからは褒めてもらえるのが社会の良さではないかしら。先人が作り上げ、僕らが作っていく社会は、それぐらいの温かさを保障していなくてはいけないと思うんです。

例えば。例えば猫は、ただ花の香りをかいだり、陽だまりで寝てたり、散歩したり、ネズミを追いかけたり、恋をしたりケンカしたりしているだけで...十分ですよね。猫はこの世界でそれなりに生活していて、僕らニンゲンから見れば「この世界で、よく一匹で生きていられるなぁ」と思う時もありますが...よくよく考えてみると、「この世界で、一匹で生きていく」って、僕らも同じことではないですか? 仕事をしたり、恋をしたり、家族と一緒に過ごしたり、誰かを助けたり誰かに迷惑をかけたり。そうしながら、人ってそれぞれの人の人生を「一匹で生きて」いるんじゃないかって考えると、猫だってニンゲンだって同じですもん。

ただ生活を立てている、という事のスゴさを噛みしめて、尊敬しあいたい。お金が欲しいから仕方なくやる、という態度でも、やってるだけで十分価値がある。

暮らしてるだけで、スゴい。

冒頭の猫の写真を見返しながら、そんな事を考えていました。そして、「お前は本当にスゴいな!もうハグしちゃいたいぐらい、尊敬するよ!」って伝えたい人がたくさんいる事に思い当たりました。褒めたい人がたくさんいるって、シアワセな事です。

'10 07月05日 (月) 19時07分 : ウミネコの形をした僕のセンサー

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八戸を離れながら八戸の写真を毎日更新するブログを運営しているという変則的なワタクシですが、「なんでそんなに八戸が好きなの?」と聞かれると答えに窮します。

だって、生まれた町なんだから、仕方がない。

この「仕方がない」がポイントで、八戸市民の方や八戸に縁がある方には申し訳ないのですが、こんな風に感じている事は事実です。でも、例えば誰かを好きになることに理由がないように、僕の親が八戸で僕を育てたという偶然によって、僕の八戸好きは魂に焼き付けられたように感じているんです。だからこそ、僕個人の考えや行動でどうなるものでもないから、「仕方がない」んですね。

僕が八戸という青森県の片田舎(それでも県内では2番目の都市なんですよ、人口だって24万人もいるんです)で18年間育てられている間に、「八戸センサー」とでも言えるような特殊な能力が僕の心の何処かに備え付けられました。そのセンサーはウミネコの形をしているイメージで、八戸の良さや美しさを発見することを責務としています。そして、何かを感じ取るとミャーミャー鳴いて僕の意識をツツキます。

僕は、内なる八戸センサーに従って、シャッターを切ります。

今日の写真は、まるで何も写っていません。何の変哲もないバスの停留所と、電信柱と、看板と、草原と山並みと空。日本中どこの町にだってありそうな光景です。でも、ウミネコの形をした八戸センサーは、執拗に僕の意識をつついています。

「おい、思い出せ、お前の心の一部が、この風景の中に写り込んでいるはずだ」

とでも、言うように。つまり、八戸センサーの正体は、僕自身なのでしょう。そして、僕は僕自身を撮影したくて、ファインダーを覗き込むのかもしれません。

'10 07月04日 (日) 12時31分 : 布オムツと南部バスで育った僕

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僕は布オムツで育った。

今となっては便利で赤ちゃんの肌にもやさしい紙オムツが普及したけれど、小さい頃に見た「手ぬぐいの手触りをやさしくしました」みたいな布オムツが2列の物干し竿を埋めて風に吹かれていた光景を、今でも懐かしく思い出す。

紙オムツが技術的に優れているのは、「水を漏らさない」「肌にやさしい」「伸び縮みする」「加工しやすい」などの特徴を備えた紙素材と、水分を吸収するポリマー(高分子)だ。加えて、様々な素材(紙・木・金属・石油加工品)を使い捨てる大量消費文化が隆盛したことにより、紙オムツにも市場の要請が発生し、業界はそれに応えた。技術革新と文化の変容があったからこそ、紙オムツは一般大衆でも安価に買える商品になったのだ。

...うーん、なんか小面倒な流れになってしまった。話を元に戻します。

僕は布オムツで育ちました。僕自身が布オムツを洗う母親や祖母の姿を直接憶えている訳ではないけれど、「汚れたものはコンビニ袋に入れて、縛って捨ててしまえ」という現代の風潮とは違い、汚いものを1つ1つ手荒れも厭わずに洗う姿を想像すると感謝の気持ちが沸くし、あまつさえ心が痛みさえします。

きっと今、布オムツを手にとったなら、胸が苦しいだろうな。

その時の気持ちは、例えば小さい頃から八戸を出るまでお世話になっていた南部バスの打ち捨てられた車両を、人里はなれた山奥で見つけた時の気持ちに、似ているような気がする。痛む心に目を細めながら、ありがとうって小さい声でつぶやく。

'10 07月03日 (土) 23時02分 : その場所へ行くチケット

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いつか小さい頃に乗ったバスは、整理券にすらワクワクした。この紙を取って乗ることがバスという仕組みのルールで、そんな社会のルールに参加出来る自分が誇らしかった。紫色のインクを汗でにじませながら、僕の目線はフロントガラスにもバックミラーにも写らないどこか別の場所を眺めていた。

僕が眺めていた場所には、堂々と立派なオトナになった僕がいて、年老いても笑顔が余計いとおしくなった家族たちがいて、そして毎日眺めても眺めても足りないくらいキレイでかわいくて自慢のお嫁さんと、子供たちがいる。

「好き」を胸を張って言いあえる、そんな場所。

不器用だし、辛いこともあったけれど、そんなササイなことは触れ合うぬくもりの前にはすべてかききえて、電気を付けたばかりの夕暮れのリビングで心おだやかに夕食を食べている。窓の外を流れていく雲の下側の淵が、何かのしるしのように夕焼けに輝いている。畑では野菜が夕闇の中で何か考え事をしているみたいに、じっと実っている。

毎日はまるで同窓会のように、不出来な昔の自分や相手を許し合って、はにかんで笑いながら過ぎていく。四季が巡り、それぞれの季節の光が差していて、その光の中には僕や僕を取り巻く人々のうれしい事と悲しい事が陰影になって、家路の途中の路地に染み込んでいる。風が、そんな僕の気持ちを知るように、やさしい息のように耳をなでる。海、山、野原、家々や工場や犬小屋や学校、風はそれらを見下ろしながらゆっくりと流れ、何かを確認し終えたみたいに静かに消えていく。

「好き」を胸を張って言いあえる、そんな場所。

あの時僕の手の中にあったバスの整理券は、その場所へと繋がっているはずなんだ。

'10 07月01日 (木) 08時07分 : アスファルトを割る

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お写真のみの更新、ご容赦下さい。

最近度々写真をとりあげている八戸市南部の是川地区ですが、この辺りまで町を離れてくると、少しずつ自然がニンゲンの営みを超え始める様子が感じられる時があるんです。土を封じ込めているはずのアスファルトやコンクリートが欠け始め、緑に覆われ始めます。ニンゲンが絶滅した後の風景...と言うのは大げさかもしれませんが、自然はいかに強大で執念深い力を持っているかが分かるような気がするんです。

自然の存在感が、道のそばまでせり出し、迫り、アスファルトを割り、ニンゲンの力を超えようとしている。そんな空気を撮ったつもりの一枚です。

'10 06月30日 (水) 21時32分 : もの言わぬ言葉

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思想家・吉本隆明は「言葉の幹は沈黙である」と言ったけど、どうにも言葉でうまく伝達や表現ができない時は、案外言葉から離れたほうが良かったりすることが多いです。

例えば気持ちがぐしゃぐしゃしていても、お部屋の掃除をしたらスッキリした・・・なんて事がありますよね。これって無数の理由が絡みあってはじめて「スッキリ」という結果が生まれているんだとは思うんですが、言葉に注目して煎じ詰めれば「言葉を使わずに、人はスッキリできる」と言えるんじゃないでしょうか。

人は、言葉を使わずにでも、スッキリできる。

言葉を使っていると、ついついこの事実を忘れがちになるような気がします。この事実を下敷きにした上で、「言葉を使わなくても良いのに、言葉を使う事自体難しいことなのに、それでも言葉で伝えることは、スゴイことだ」と考えるほうが健全なような気がします。

ちょっとエッチな喩えになってしまうんですが、時々「喧嘩した後、エッチして仲直りするカップルって、どうなのよ? それってちゃんと話し合わないと、ただ問題を先延ばしにするだけなんじゃねーの?」と「喧嘩→エッチ→仲直り」という流れを非難する人がいますけど、その非難の言葉自体は、エッチの効用の爪の先ほども役に立たないわけです。

でも、逆に「喧嘩→エッチ→仲直り」のようなコミュニケーションを続けながらも、時間をかけて言葉を交換していくからこそ響く言葉もあるわけで。

・・・この文章自体も、言葉なわけで。

不思議なものです。

'10 06月29日 (火) 06時06分 : 喉が乾かなかった中学の僕

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僕がはじめて「僕の部屋」をもらったのは中学1年生の時で、少なくとも中学卒業までの約3年間は、毎朝歌を歌っていた。僕は少ない小遣いで買ったCDを宿命的に繰り返し聞いては、それに合わせて歌っていた。目が覚めてから朝食のために居間へと向かうまでの束の間、僕は悦に入って大声で歌っていた(まさか家の前の通りにまで聞こえているとは思わなかった)。あまりの気分の良さに、まるで僕は歌手と同じぐらい歌が上手いじゃないか! と本気で思っていたけれど、それは単純にCDの歌声を僕の歌声と錯覚していただけだった。眠りから覚めたばかりの乾いた喉で、僕は歌っていた。

中学の頃、僕の小遣いは3000円だった。欲しい本やCDやゲームはたくさんあったから(それ以外はあまり無かった)、買い食いをするのも「ビッグカツ」「うまい棒」など高くても30円クラスの乾いたお菓子。ジュースなんて、学校の行き帰りで飲んだことなんて無かった。学校の水道をガバガバ飲んでシャキシャキ歩き、家に帰れば夕食か牛乳で満足した。

当時、誰が僕の家に遊びに来ても、誰の家に遊びに行っても、ジュースを買うことは無かった。そもそもジュースを買うことなんて、思いつかなかった。自前でジュースを買うのは特別なイベントの時だけで、基本的にジュースを買うのは大人の役目だと思っていた。大人がサンワかサンデーか(地元の量販店)に行って30本1000円で買ってきた缶コーヒーやニセコーラを、しかるべき時に限って子供が飲む。それ以外は、飲まない。

・・・どうして、喉が渇かなかったんだろう?

どれだけ体育があろうが、部活があろうが、太陽が照りつけていようと、汗をかいていようと、僕は喉が渇かなかった。一方、今の僕はコーヒーやお茶を欠かせなくなってしまっている。もしかすると、喉の渇きと青春の終わりの間に関係があるのかもしれない。

今の僕が町を歩き、青空の写真を撮る度に、不思議になる。どうして中学の頃の僕は、喉が渇かなかったんだろう? 炭酸水が弾けるのを口の中に感じながら、眩しく空を見上げる。

'10 06月28日 (月) 19時28分 : 淵にかかる緑、溶けていく緑

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多忙のため、お写真のみの更新でございます。ごめんなさい!

本日のお写真は、八戸の中心部を流れる新井田川上流部、山間の淵にかかる新緑です。

ここまで山に近づくと、すっかり八戸は港町から山村へと姿を変えます。海と山がせめぎあう八戸の良さです。いつか八戸に帰ったら、山か海かには毎週出かけるんじゃないかなぁ。

'10 06月27日 (日) 09時41分 : ギラギラしているような、あきらめているような

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不満や欲求や攻撃心を抱えてギラギラしているような、このまま消える事すら受け入れて諦観しているような、そんな夕日の海だと思いました。

僕は港町の生まれなので、心のなかにはいつでも海があって、その海は時々こんな色になります。30を過ぎた今、その夕日の色はますます深く輝いているような気がします。よく晴れた早朝の白く輝く海の日もあれば、そぼ降る雨がかすかに波を揺らす灰色の海の日もあります。

あ、別に落ち込んでるとかそういう事じゃないんです。ただ、こんな日がある、っていうだけの話です。そして1つ付け加えるならば、誰しもの心のなかにもこんな色があるんじゃないかなって、思っているだけなんです。

'10 06月26日 (土) 16時27分 : 新緑も薄れる頃

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会社への通勤途中、ちょっとした近道ができる経路には三角形の形をした小さな公園があって、その公園は夜遅くになると痴漢が出るなんてウワサもあるような、草ボウボウでちょっと寂れた公園なんですが、逆にその寂れ具合が良いんです。草も低木も大きな木も茂り放題で、この時期は新緑の黄緑から精悍な濃い緑までグラデーションが広がるんです。「コイツら、今が青春真っ盛りなんだろうなー...」なんて思いながら歩いていると、会社までの足取りも軽くなるというものです。痴漢の心配も吹っ飛びます(夜は歩きませんけど、痴漢がコワイですしね。僕は男だけど、それでもコワイものはコワイ)。

今日のお写真は新井田川沿いの木々の新緑です。春から初夏へ、初夏から盛夏へ。ゆっくりと眺めると、自然はカレンダーよりも情緒深く、季節を教えてくれているように感じます。そろそろ木々は逞しく深い緑を湛える頃。新緑の黄緑が、懐かしい頃になってきましたね。

'10 06月24日 (木) 21時07分 : 花を見るコスト

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今日のお写真は是川へ向かう道すがら路傍に咲く花なんですがトラックの埃の中で誰に手当もされるでもなく咲いているのかそれとも近所の殊勝な方が手入れをしてくれているのかも分からないままに眺めていると花の後ろにLEDではない古いタイプの信号機が見えて嗚呼実に風情があるねぇなんて誰に言うでもなく独りごちていたりしながら数十枚写真を撮ってみたけれど改めてこの土地は自然が豊かで実は都会に住むよりも自然に触れ合う喜びを何十倍も感じられるわけだけどそのコストは一体誰が支払っているのだろうと訝ったりもしたのです。

'10 06月23日 (水) 21時14分 : 強い風を受けながら海を見つめるような恋

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テレビで「モテたくて必死な芸能人No.1決定戦」という番組を見ながら、パソコン上で編集していたのは上の写真のような仲睦まじい熟年カップル。魚市場から工業地帯へと抜けて行く海沿いの堤防を歩いていく夫婦を眺めていたら、「モテたい」とは別の・・・なんというか「仲良く穏やかに暮らしたい」というような想いが湧いてきたことを思い出しました。

すごーくウザったい事を言ってますけどね。スイマセン。

八戸の町、特に海の近くは道路も広く、風も強く、人影も少ないです。だからこそ、ただ散歩している夫婦なのに、まるで「この世界を二人手を取り合って生きている」というような雰囲気が感じられるんですね。港町の男女はみんな、強い風を受けて海を見つめるような、凛々しくて切ない恋愛をしているのかもしれない・・・なーんて事を考えたり、ね。

やっぱりウザったい事を言ってますけどね。スイマセン。

'10 06月22日 (火) 23時11分 : いつか見て、もう見られない景色

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この交差点は、どこだったろう?

市川の船溜まりを撮影した後、その辺りをウロウロと車で走っている時に一度だけ見た景色なんですが、傾いた自動販売機や、一昔前に建てられた品の良さを湛えたつつも渋くくすんだ色合いが切ない一戸建てや、住宅地と林が混じり合う農村形態や、薄暗さや・・・どことなく胸を突いて、八戸らしい色合いのように思う場所だったんですが、どこだか分からなくなってしまいました。

確か左に道が折れていって、S字になっていたような気がします。

名前も知らない、どこかも分からない場所だけど、この写真を1枚撮ってあっただけで、ここが個人的にとても大切な場所のように感じられる。

そんな効果も、写真にはあるのかもしれないなぁ・・・なんて、写真をじっと見つめながら思ったりするのです。

'10 06月20日 (日) 18時47分 : このタグに、願いを込めて

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ウミネコさんのヒナの足に生態調査用のタグがついています。「子供なのにカワイソウ!」と思われる人もいるかもしれませんが、僕たちニンゲンの学術研究やウミネコの保護のための措置なので、ご理解いただければと(僕は関係者ではないので、勝手ながら)思います。

それでもやっぱり納得できない人には...例えばこんな説明はどうでしょう?

僕たちニンゲンは物の形を理解したりニオイで相手を判別したりする能力が劣っているから、ウミネコ同志なら確実に個人(個鳥?)を認識できるのに、僕らはウミネコ一匹一匹を認識することができません。だから、例えば「このウミネコ、去年も会った!」なんて再会の感動が得られないわけです。

コンピュータが発達して、もしかしたら将来的に「ウミネコの個人を認識するプログラム」が出来るかもしれませんが、今のところ、それもありません。

だから、一部のウミネコさんに、タグをつけさせてもらいます。

ウミネコさんが八戸から旅立った後、よくぞまた八戸に戻ってきてくれたって、タグを見ればわかります。一度会ったことを証明するために、タグを付けるんですね。タグがついた成鳥がいるということは、ウミネコさんがまた帰ってきてくれたことになるんです。

蕪島の環境をずーっと守っておくから、また、帰って欲しいんだよという願いと誓いが、このタグには込められているんですね。ほら、結婚指輪みたいなもんですよ、ニンゲンで言えば。結婚指輪のことを、枷(かせ)のように言う人っていないですよね。永遠の誓いを輪という形に封じ込めた指輪と同じような気持ちで、ウミネコさんにタグをつけさせてもらっている。その代わり、蕪島の環境を、しっかり守る。

港町八戸と、港の反映を彩るウミネコさんのつながりが、形になったもの。それがタグなんだと思うんです。ウミネコさんの管理をしている方々のご苦労や、港町としての八戸の歴史や、環境を守りたいという想い...そんな想いが、永遠をあらわす輪という形になっているんだ、と思います。

'10 06月19日 (土) 16時48分 : デコボコ電車に夏が来る

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ちょっくら出かけてまいりますので、本日の日記はお写真のみでございます。

八戸線の車体は赤、映る新緑の明るい黄緑、明るい薄曇りの白、といった風情でございます。八戸線の車体は都会の電車と違ってまるまるとして表面がすこしゴツゴツした鉄っぽさが魅力で、やわらかい凹凸に塗られた厚いペンキに手を触れると、無骨だけど温かな旅情が感じられるというものでございます。

言わば、八戸線の車両は未だ皮膚感覚のようなものがあって、走り方や見た目は不器用かもしれないけれど、それはそれで憎めない相棒といった風情なのです。だって、触ると丸みがあって、あったかいんですもん、カワイイやつです。

'10 06月17日 (木) 21時50分 : オトナもアナタもかわいいお馬

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僕をみつけて体の向きを変えてくれた、お馬さん。その仕草に、いじらしさや素直さを見出して、いたく感動した僕。動物や子供がそんな風な仕草をしてくれると、僕はすごーく喜びます。顔と体で、精一杯喜んでいることをお馬さんに伝えようと頑張っちゃいました。

でも、オトナの僕だって、たまにはそんな仕草をしてるつもりなんですが、ちーっとも評価されません。

それが評価されないことは当たり前だと、僕はオトナだから知っています。僕を褒めるぐらいなら、動物や子供を褒めて欲しいとすら、思います。

そんな風に、褒められることを我慢しているオトナの人が、日本じゅうに約数千万人はいるという調査が、先日政府から発表されました。当然ウソですが、こんなウソもつきたくなるぐらい、たまには誰かオトナを褒めても良いような気がします。テレビもネットもなんかネガティブな事ばっかり言っちゃってさー。たまには誰でもいいから褒めろよ。...と思いますが、やっぱりオトナな僕はそんな口調は使わないことに決めているのです。

要は、お馬さんカワイイな、って事です。こういう回りくどいことをいう人のことを、世間はオトナと呼びます。

'10 06月16日 (水) 21時37分 : 空き地に浮かんでいる例のもの

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八戸は水産業が盛んなので、専門の加工業者さんもたくさんあって、「八戸水産加工団地」なる辺り一帯全部水産加工会社さん! という興味深い場所があります。魚が多い時期は活気づく場所ではあるんですが、八戸は5〜6月にかけて一年で最も水揚げ高の少ない時期を迎えるので、この時期の(さらに夕暮れの)水産加工団地は、しんとしています。

まばらに空き地が散らばる水産加工団地は、その歴史の長さから古い建物も混在していて、「この壁はどんな素材で出来ているんだろう?」と不思議になるような建物もちらほら。科学や技術を元にして作られた建物なのに、その古さによって人懐こさや温かみを得た団地と、一斉に咲く草花たち。放置された空き地の、ただそこにあるだけの空間。

暇そうな顔をして、一匹だけウミネコが空を飛んでいく、夕暮れ。

その場所は実際に行くと最初は退屈な場所かもしれませんが、じーっと目を凝らして見ていると、不思議な調和が見えてきます。古びていく建物と、毎年枯れる代わりに毎年新しく芽吹く草花たち。古さと新しさの調和が、空き地の上に浮かんでいるような気配を感じます。ガランとした空間の気配そのもののようなテイスト...僕はそんなテイストを写真に撮りたいとファインダー越しに探しまわるんですが、どうにも難しいので、一度直接ご覧いただくと良いかもしれません。

ふと空き地を振り返った時、ぽっかりと浮かぶ言葉にできない感慨を見つけたら...それです、僕が撮ろうとしていたものは。

'10 06月15日 (火) 21時38分 : 春から初夏へ、そして喪失感

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僕が生まれてから、最も幼い頃の記憶は、幼稚園の頃。けっこうトラウマな事ばかり憶えていて、やれ粗相したとか、泣いちゃったとか、痛かったとか、そういう思い出が多いです。でも、例えば実家の庭に生えていたハコベの小さな白い花や、幼稚園に咲いていたタンポポのような美しい光景も、いくつか残っています。

小学校1年生の頃、僕は何度か登校拒否のようなことをしたことがあります。大した理由もなく学校に行きたくないと駄々をこねたり、仮病をしたり。2、3回やったような気がします。そんな登校拒否をする日の朝、7時半頃になると母親におもむろに嘘の不調を訴えるわけですが、その前...6時には起きていた僕は、近所を自転車で走り回って遊んでいました(本当、ヒドイ子供ですよね)。風を切って走る朝の街並みは白く澄んだ光に満ちていて、世界は間違いなく祝福されていると信じられるぐらい、さわやかな時間が流れていました。

上の写真は、蕪島に咲き乱れる菜の花です。その圧倒的な光景は、小さい頃の僕の内側から湧き出していたイノセントな生命力のようなものを感じさせます。精緻で美しく、命に満ちている、この世界。僕はこの時期の蕪島を訪れると、美しさや生命力に圧倒される一方で、ほんの少しの喪失感が僕の思い出が連なる曲線をよぎっていくのを感じます。

'10 06月14日 (月) 21時57分 : ウミネコ少年は、痩せている。

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足をビッ!と開いたウミネコの少年もしくは少女です。ちょうど子供の羽から成鳥の羽に切り替わる辺りのウミネコは、全身真っ白な成鳥に比べると見た目は悪いかもしれないけど、尖ったぐらいのスリムな体つきが魅力です。

というのも、成鳥の中にはおデブちゃんっぽいヤツがいるんですね。といっても、脂肪で太っている訳ではなさそうで、よくよく観察すると首や胸周りの羽の量が違うようです。上の写真の子も、首が他のウミネコより長いように見えるんですけど、実は首が長いんじゃなくて「首や胸の辺りの羽が生え変わりの最中で、少なくなっている」からだと予想されます。

ヒトの少年少女も、ウミネコの少年少女も、なんか共通するところがあるなぁ...って思います。細くて、でも、芯は強くて。

一方、僕はというと...とうの昔に成人してるので、お肉が心配なお年頃です(涙)

'10 06月13日 (日) 16時01分 : おかえり、はやぶさ。

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以前、日記に一度書いたことがあるけれど、僕たちの体を構成する主要元素は、宇宙に無数に浮かんでいる天体の死骸だと言うことができます。もともと宇宙には水素やヘリウムといった小さい原子しかありませんでしたが、それらが集まって天体を形成し、かつその天体が超新星爆発という星の死を迎えることにより、より大きな原子が生まれたとされているんですね。血の中の鉄分も、骨のカルシウムも、炭素も酸素も窒素も、これらはすべて、星の死骸と言えるわけです。

僕たちの体は、星の死骸で出来ています。「宇宙」と聞くとちょっと遠い存在のようにも思えますが、とんでもない、僕たちが宇宙そのものだと言えるわけです。

今日の夜22時頃、小惑星イトカワから探査船「はやぶさ」が帰ってきます。幾多の困難を越えて、小惑星イトカワのサンプルをオーストラリアの砂漠に落とし、探査船本体は地球の大気圏で燃え尽きます。最期のミッションです。探査船の死は、地球に隕石が落ちる危機に備えたシミュレーション用データとして活用されます。彼は、その死さえ、人のために使うのです。

「はやぶさ」が越えてきた困難は想像を絶します。詳細はJAXAのサイトを見ていただきたいんですが、小さな探査船が遭遇した絶望的な状況の数々と、それを出来る限り予見し対処する科学者の叡智が、人々の耳目を集めています。人類の叡智のため、未来のための知見を宇宙から持ち帰るという役割のみならず、困難に立ち向かい続ける勇ましい物語として、「はやぶさ」とその開発陣は尊敬を集めています。

15時から16時にかけて、日本上空を「はやぶさ」は通過しました。肉眼では確認できませんが、もしかしたらあなたの目線の先に「はやぶさ」の勇姿があったかもしれません。

おかえりなさい、「はやぶさ」。その身焼き尽くされようと、僕はその勇姿をしっかりと憶えている。

追記

Google先生のトップ画面のロゴが「はやぶさ」になりました! その時の画像は↓。

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追記2

読売「「はやぶさ」大気圏突入前、地球撮影に挑戦」。たまらんなぁ。そしてこの場面を描いたイラスト→泣ける

追記3

おかえり、はやぶさ。

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Ustream、帰還、最期の勇姿。

ニコニコ動画は生放送を行い、Ustreamまでユーザはあふれた。Twitterでは「はやぶさ」の話題一色となり、周辺サービスがことごとく重くなった。皆が固唾を飲んで見守る中、空が光り、「はやぶさ」は燃え尽き、不安に包まれた漆黒の夜空の向こうからカプセルが発するビーコンの音が聞こえた時、歓声が一気に沸き起こった。皆が口々に「おかえり」とつぶやいた。「はやぶさ」はたくさんの人達の想いの中、夜空の中に吸い込まれていった。月より遠い天体への着陸・往復は人類史上初の記録されるべき快挙だが、それにもまして科学者の奮闘と、諦めない姿勢と、トラブルに耐え続けた「はやぶさ」の勇姿が、人々の記憶として残った。

おかえり、はやぶさ。

追記4

「追記2」で紹介した「はやぶさ」の最後の任務。「はやぶさ」が最後に見た、美しい星。

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みんなから「はやぶさ」への言葉。Twitpic

「はやぶさ」チームから「はやぶさ」への言葉。「JAXA公式サイト/関係者からのメッセージ」。

追記5

「はやぶさ」の最後の勇姿、ズーム版。

追記6

「はやぶさ」帰還の映像まとめ。

'10 06月11日 (金) 20時58分 : 犬になって通勤したら

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最近通勤途中に汗をかいてしまうぐらいに暑くて、汗っかきの僕としてはじっとりと湿るTシャツが気持ち悪い時に、ふと「犬になってみたいな」って思ったりします。犬は汗をかかないらしいから、ずーっと肌はサラサラのはず。

でも、そのかわりに一日中ハッハッと息をしなきゃいけない。もし僕らが猿からじゃなく犬から進化してたら、満員電車でぎゅうぎゅう詰めのサラリーマンがみんな口を開けてハッハッと息をしてたかもしれない。学生もOLさんもオジサンも、みーんな口を開けてハッハッハッハッ...と思うと「やっぱり犬はイヤだ」と思います。あのプニプニとした肉球の感触を一度経験してみたいな...と後ろ髪引かれるところはあるけれど。

そんな下らない事を考えているうちに目的地に付いていて、いつの間にかTシャツの汗も乾いていて、やっと涼しくなりだした6月の風も気持ちよくて、ラッキーと思う。夕闇の中で、きっと犬たちも夕涼みしているんだろうなぁ。

'10 06月10日 (木) 19時45分 : 夕暮れの効用

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なんとなーく海のそばに行ってしまう夕暮れです。

なんとなーく泣きたくなったりしているうちに、お腹がすいてきます。

なんとなーく晩ゴハンを食べ終わったら、そのうち眠くなってきます。

「へぇー、なんだかたいしたものだな」なんて思っているうちに、眠っています。

そんな様子を、うみねこはこっそり見ています。つれない顔して、ツイーッと飛びながら。アイツら、どんな事を聴いても、どんな顔を見ても、言いふらしたりしませんから、話したらいいですよ。全部飲み込んで、飛んでいってくれますから。

'10 06月09日 (水) 20時53分 : 目に見えるもの、見えないもの

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僕やあなたの体の中にハッキリと存在している心は目に見えないのに、ただ意識も持たずに流れて行くだけの霧はこんなにしっかりと目に見えるなんて、不思議だと思いませんか?

'10 06月03日 (木) 19時46分 : 八戸に帰る前の日は

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八戸に帰る前の日は、たいてい計画を立てようとするけど集中力が続かず頓挫するというワンセットを何度も繰り返すんです、僕。アレもやりたい、コレもやりたいと考えていると、いつの間にか焦りにも似た感情が湧いてきて、思わず珈琲を淹れてしまったり、音楽を変えてみたりしてしまいます。

修学旅行の前の日の子供と同じような落ち着かなさ。

オトナになるとこういう事はなくなると思ってたんですけど、どうにも僕がオトナになりきれていないのか、それともそもそも仮定が間違っているのか、結局今の僕はドキドキしている訳で。この文章を書いている今だって、キーボードなんてほっぽらかしてベットに飛び込んで、のび太のように天井を眺めてボーッとしたいような衝動にかられます。

明日になれば僕は八戸にいるなんて、ウソみたい。

今日の写真は、6月のやませの日のウミネコです。ウミネコ繁殖地である蕪島はこの時期菜の花に包まれ(昔は「蕪の花」と呼んだことから「蕪島」と名付けられたという説もあります)、もりもりと茂った菜の花の間でウミネコたちは卵を温め、雛を孵します。やませの日は冷えますが、不思議と菜の花の間は温かそうに見えます。

明日か明後日には、見に行こうと思います。

'10 06月02日 (水) 20時01分 : 寡黙な父親の背中のような

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海が荒れると漁ができない、魚がいなけりゃ稼げないという漁業の町・八戸が戦後大きく成長することが出来た理由のひとつである工業は、今も臨海部に雄大な工場群を展開しています。工業用の列車や地下のベルトコンベアによって供給される原材料が、物言わぬ工場によって黙々と粛々と別の何かに作り替えられていきます。かつては工業地帯独特の臭気に満ちていた場所もありましたが、今や煙突が吐き出す煙もほとんどが水蒸気。音もなく、作業員の作業の安全を確保するライトだけが時折チラリと瞬くだけの工場群。

寡黙な父親の背中のような、その姿。

'10 06月01日 (火) 21時13分 : 春の海ひねもすのたりのたりのたり...

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八戸の春の海でございます!冬は鈍色、夏は青、秋は地味...いずれも単調でシックな色合いなんですが、春の海ってエメラルドグリーンと青を荒く混ぜあわせたようで「どこから緑色が出てくるんだろう?」と不思議に思うような色合いです。波でずーっと混ざり合い続けているのに、グラデーションはむしろ増していくかのようです。

このやさしさと美しさが、北国の厳しい冬が過ぎた後に来る。実に八戸はツンデレなところがあります。

本日は多少酔っておりますので、これまで! ごめんなさい、ペコリ。

'10 05月30日 (日) 11時11分 : 「やすめ」の姿勢・うみねこのおしり・バカな想像

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「気をつけ」「やすめ」の「やすめ」の姿勢について、僕は子供の頃「両足を均等に左右に開く」という形で習った。けれど、ドリフターズがコントでやっている「やすめ」は「右足だけを右前方に伸ばす」というもので、すごく違和感がある。そんな姿勢じゃ片足に体重がかかってそのうち辛くなるだろうし、わざわざ片足を突き出すのは余計に疲れそうな気がする。

昔の「やすめ」の姿勢は、片足だけ斜め前に出すものだったのだろうか?

一方、うみねこの世界では2種類の「やすめ」が混在していて、左右均等に足を開く者もいれば、片足だけをチョコンと差し出している者もいる。生態を管理するためのタグが足についている者が海を見渡しながら片足を突き出している画なんぞは、「ほら、このキラキラ、ちょっとキレイだろ?」という自慢げな様子すら見えてきて、微笑ましい。

というわけで、今日の写真は、うみねこさんには申し訳ないけれど、思いっきりオシリなお写真です。ぷっくりと膨らんだお腹、華奢な足、意外と羽がキレイに整っているオシリ。率直な話、フン等で汚れていても良さそうなものだけれど(何せ全身が羽で覆われているんだし)、ところがどうしてキレイキレイ。もしかしたら、フンをする時には羽が左右にパカッと開くのかもしれない。バカな想像であることは分かっているつもりだけれど。

'10 05月29日 (土) 08時54分 : お前面白い顔してんなー、俺もだよ。

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キツイ顔だって言われる、とかわいい子が言っているのを聞くことほど寂しいことはない。なぜなら、僕も割と「俺ってキツイ顔をしてるんじゃないか?」と心配しているから(別に僕はかわいくはないけれど)。

いろんな人に話を聞くと「自分の顔にはどこかキツイところがある」と感じている人はかなりの数いるようなので、みーんな余計な心配をしてるだけかもしれない。そもそも僕らはいろんな感情を持っていて、どんな人にだって「あいつ絶対許さない」から「すべてのものを許したい」まで、バラエティに富んだ虹色の心が収まっている。そんなバラエティさに比べると顔にはバラエティが無いようで、「油断するとすぐ怖い目になってしまう」とか「肉のつき方がどうにもコワイ」とか感じられて、ゲンナリしちゃったりする。

まとめると、一般論的に「顔の表現力は、心のバラエティを下回っているようだ」と言えそうだ。だからこそ「30過ぎたら顔に責任を持て」なんていう謎の格言によって、顔での表現力が社会性を大きく担保していることが暗に示されているのだろう。

真のオトナは、無表情ではイカンのかもしれない。

一方、そんな小難しい話をよそに、八戸公園のアヒルだかガチョウだか分からない謎の鳥は、上の写真のように、言わば仏様みたいな顔をして一日中日向ぼっこしている。僕がカメラを向けても何一つ表情を変えず、視線も微動だにせず...というか、そもそもそこに視線が存在しているのかどうかすら分からないような顔をして、温かさにだけ身をひたしている。見れば見るほどやさしい顔だし、ちょっと見方を変えるとどこまでもおかしい顔にも見える。顔って何だ? という気持ちにすら、なってくる。

顔。多細胞生物が生き抜くための高機能な能力を獲得するために、頭部に集中させた感覚器群。それは遺伝子の内容と受精卵内に形成される特定の化学物質の濃度分布によって形成される。ニンゲンに至っては、そこから表情を読み取り、相手の心を推測し、愛したり憎んだりするようにすらなった。顔自体はただのモノなのに、僕らはそこにココロを見る。

「オマエ、面白い顔してんな」と、同じく面白い顔をした僕は、その白い鳥に言う。鳥は何も言わず、風にかすかに頭を揺らす。僕と白い鳥の体の内側では、遺伝子とココロが僕らの与り知らないところで、僕らには理解できない何かを静かに執り行っている音がしている。そんな気がする。

'10 05月27日 (木) 20時16分 : たんぽぽ野原、たんぽぽ性

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たんぽぽが咲く野原が家の裏庭にあるような町に僕は住んでいました。それが当たり前だと思ってけど、ちっとも当たり前ではないことを知るのは八戸を出てしばらく後のお話。

そんなこんなで、もう少したんぽぽを評価してあげても良いのではないかと思いつつも、この場所をみんなに見てもらおうとは思わないのです。健気で地味で美しいけれど慎ましやかな花・たんぽぽの「たんぽぽ性」のようなものが、僕をしてブログに場所を書かせないのです。

「たんぽぽ性」とは何か? ...例えば同じ春に咲くである桜を例に採ると、それはとてもキラビヤカで、僕たちを祝福してくれているようなメデタイ感じがあります。一方たんぽぽは地味だけど温かで、僕たちだけじゃなく虫や土までをも祝福しているような感じがします。そんなイメージもひっくるめて、僕は「たんぽぽ性」を定義したい。

というわけで、一面たんぽぽの絨毯になる上の写真の場所をこのブログで公開することは、しばらくありません。そこは多分、僕の家族と周辺何軒かの家の方しか知らない秘密の場所としておく方が相応しいような「たんぽぽ性」を体現した場所なのです。

'10 05月23日 (日) 22時55分 : マダラに傾く港町

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海に下っていく途中、くるりと半円を描く八戸港に向かってせり出し広がる住宅地が道の向こうに広がる光景です。荒れ狂う海の恐ろしさを知らない人はいないけれど、それでも海に近づきたいと思う人々の想いが、街の形にも見事に表れているように見えます。

この日はマダラな雲が空を走っていて、陽の光が数百メートルぐらいの小さなスポットになって流れていく何やら予感めいた雰囲気。僕のそばは日が照って暑いぐらいだけど、道の彼方の住宅地は曇天の下に暗く沈み、家々も項垂れているよう。

起伏の多い町、晴れと曇りが入り乱れた天気。あたたかなシアワセと、その上を横切っていく不吉の予感。目を転じると、海。それはまるで、僕らだけが右往左往して、海だけが落ち着いている、という対比構造があるように思えてきて、ちょっとあきらめたように僕はかすかに笑ったような気がします。

'10 05月21日 (金) 20時15分 : こんなカワイイ子に見つめられたら

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日本で唯一人間が足を踏み込めるウミネコ繁殖地である蕪島では、そろそろウミネコの雛の孵化が始まります。生まれたばかりの雛は巣から動きませんから、何せ蕪島では人があるく道から1cmのところに巣があるので、ゆっくりと雛を観察することができます(当然手を出してはいけません、親を怒らせたら大変なことになりますし)。

上の写真の雛は少し成長して、自立して巣から数十センチ〜1メートルぐらいを歩き回ることができるまでになっています。つぶらな瞳とモコモコとした胴体に比べると妙に逞しくて生々しい足が、生まれたばかりなのに既に備わっているんですね。

こんな子が、警戒心もさほど無く(人間に慣れているのか、それとも子供ならではの純粋さなのか?)、じーっとアナタを見つめてくるんですね...これはね、正直たまりませんよ。僕の中の悪い部分や恥ずかしい部分がズルズルと引きずり出されて、世界中の人の目に触れさせられているような気分とでも言いましょうか。この子にはウソはつけないな、と観念させられるような、そんな瞳なんです。イノセンスの塊みたいな生き物を目の前にすると、フシギとこんな気持ちにさせられるような気がしますが、特にうみねこのヒナは...素直すぎるんですよ、この子たち(涙) とびっきりにカワイイし、ちょっとだけブサイクなところがまた良い。体のバランスとか、茶色のブチの模様とか。

きっと蕪島を訪れたアナタは、しばらくはヒナたちの愛くるしさに心を奪われるでしょうけれど、蕪島を後にする時に1つ気づくことがあるはずです。それは、自分の歩幅が極めて短くなっていること。アナタがどれだけヒナたちを可愛く思い、かつ彼らを守ろうと思ったのか? という気持ちが、何センチの物理的な長さになって、あなたの足を止めていたという事実に、気づくはずです。

'10 05月20日 (木) 06時10分 : 海の霧に手を伸ばす

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風邪ひいたっぽいので、今日はお写真のみで更新でございます。

八戸の北・三沢市の臨海部、消波ブロックは太平洋に向かってまっすぐに伸びていきます。やませの時に出る海の霧(Sea Fog)が立ち込めると、海は大きなひとつのボンヤリとした光源のようになり、まるで海の向こうに何か人知れぬ価値が隠れているようなフシギな輝きを放ちます。けれど、僕らは霧によって視界を奪われているため、そんな海に船を出すことはできません。さらに逆に言えば、海に出れないからこそ、海で誰かが死ぬこともないということになります。

海の霧は、漁業の町・八戸にとっては死活問題の厳しい自然の掟であると同時に、僕らが認識できる世界すべてをすっぽりと包む優しい膜のようにも思えます。

'10 05月18日 (火) 20時36分 : ジュディ・オングの風はどこから吹いてくるのか?

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本日のお写真は新井田川河口に咲く(花について詳しくない僕にとっては)名もない花です。思いっきり潮をかぶるところに根を下ろしていて、枯れてしまわないか心配なんですが、一方で淡く咲く白い花は背景の波と対照的で美しい。アジア的な海の美しさを感じます。

ところで、ジュディ・オングの「魅せられて」のサビのところ、アジアじゃないって知ってました?こんな歌詞なんです。

" Wind is blowing from the Aegean "

風はアジア(Asia)から吹いてくるんじゃなくて、イージアン(Aegean:エーゲ海)から吹いてきてたんですね。30過ぎる今日まで勘違いしてましたよ、トホホ。

'10 05月17日 (月) 19時41分 : 木の枝の作法

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タモリがとある番組で「動作に心が宿ると作法になる」と言っていたけれど(名言だと思う)、信号待ちでふと横を見たら見つけた何の変哲もない木の枝ぶりに「作法」のような妙な調和を見つける時がある。木の枝はかすかにしか動いていない。わずかな風に葉の先端を頷かせているだけで、枝や幹は完全に静止しているように見える。ただ、その止まっている様子が、一種の作法というか、木自身と世界とを調和させる方法のように見えてくる。

きっと何の目論見も無くたまたまそんな枝ぶりになっただろうのに、その形しかあり得ないと思える。

やがて信号が青になり、数分後にはそんな感動を忘れてしまう頭の悪い僕だけど、たまたま僕がその時カメラを持っていたから上の写真を見ながら思い返すことが出来た訳で、そういった意味で昔の僕はよく頑張っているとも言える。写真は世界を切り取っているのではなく、僕を切り取っている。僕=世界、とすら言える。僕は景色を撮ろうとしているのではなく、その時の心の動きという動的(Dynamic)で不確定(Uncertain)な状態を何かに投影したいだけなのだろう。

...と、かなり自分に酔っているような文章を書いてみましたが。要は「僕は上の写真を好き」という事です。とっとと好きって言いなよ、俺。

'10 05月16日 (日) 16時01分 : 林家キクゾー文化論

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キクゾーがキクオーになった。息子にキクゾーを譲ったから。立派になったのだろう。でも、30代の僕の中ではキクゾーはいつまでたってもキクゾーだ(以下、キクゾーは林家木久扇のことを指す)。

落語に対して特段の情熱を持たない一般的な国民が唯一キクゾーを見ることが出来るテレビ番組「笑点」の中では、キクゾーは取りも直さず「バカ」というキャラクターが確立されている。わかりやす過ぎる駄洒落回答で司会者に先回って回答を指摘され、困ると妙な口調で問題を無視して笑いを取りに行く。キクゾーラーメンはまずいと揶揄される。そのうち「おい、黄色!」などと怒られる。そりゃそうだ、問題に対するウィットある回答もせず、逃げ回っているのだから。

キクゾーはバカだと、子供心に思った。

しかし、よくよく考えると、そんな子供の頃の僕の判断は、ちょっと間違っていたのかもしれないと思うようになったのは、最近だ。

  • 例えば、笑点メンバーの中で、遊女の真似を最も好むのはキクゾーだ。コユウザが男性の荒っぽい犯罪者を好むのに対して、キクゾーは花魁(おいらん)を好むのだ。「あちきは〜」「〜でありんす」「遊んでいって、くんなまし」なんて、吉原そのものである。また、芸事に秀でた人間の真似を好むのもキクゾーである。
  • 例えば、笑点メンバーの中で、「雨乞い師」「かっぱ」など、宗教的もしくは非科学的なテーマをよく採り上げるのはキクゾーだ。「アーホヤー!!」と両腕を上げて叫ぶキクゾーほど、奇妙なものはない。
  • 例えば、笑点メンバーの中で、最も客をバカにするのはキクゾーだ。簡単すぎる答えを先回りして司会者に言われるのを通り越して、客に指摘されてしまったキクゾーは、事もあろうか客に対して「バカ!」と叫ぶのだ。

...もしかすると、キクゾーはこのメンバーの中で最もアナーキーなのかもしれない、と思う。ファンキーだ。日曜夕方家族団らんに花魁のような(分かる人には)ギクリとするテーマを事も無げに放り込み、雨乞い師の真似などという芸で混乱させ、あまつさえ客を罵倒する。

かつて芸事と神事が分離しきれていなかった頃、宗教・芸術・売春・乞食・ヤクザといった「直接的に富を生み出さない仕事」に従事する人間のことを半ば蔑称的に「河原者(かわらもの)」と言った。文字通り、そういった人たちは河原のそばに集まっていたのだ。時を経て、例えば歌舞伎のように立派に大成して河原を抜け出す者もいたし、河原に留まったものもいた。しかし、彼らの中には底流する「社会をバカにし、相対化し、混沌に近づけようとする文化」があった。社会的・建設的な生活をしている大多数の人間から「河原者」とバカにされるのを感じながら、「おまえらだって、皮をはがせば同じようなものじゃないか」と目の奥に静かな炎を宿していたのが、彼らだったのだ。

キクゾーは、自らをバカに貶めつつも、アナーキーなネタを毎週日本に投じ続けている。もしかすると、秩序に反抗的で混沌を良しとし、社会に変革や自由を要求する「河原者」の精神を最も受け継いでいるのは、キクゾーかもしれないと思うのだ。

「笑点」、そして今日の写真

ちなみに、「笑点」を企画し立ち上げた立川談志は、このタイトルに「笑いの焦点」という意味を込めたと言う。笑いのポイント、である。この番組は1966年に生まれたが、それから40年以上が経過した今、これほどコンセプチュアルでキリリと鋭いお笑い番組のタイトルを、僕は知らない。

今日の写真は、八戸のお隣・階上(はしかみ)町にある霊場・寺下観音を流れる小川に降り積もった桜の花びらです。情念的なピンクが水面を埋め、底光りすらしている光景は実に美しく、退廃的ですらあるように感じます。

'10 05月16日 (日) 00時43分 : 酔っぱらったらった

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うっかりブログの更新を忘れて飲みに行ってしまいまして...スイマセン。

お詫びと言ってはナンですが、八戸名物ウミネコさんが足を滑らせた瞬間のお写真でゴキゲンをお伺いしようかと思います。写真にすると微妙にカッコ良い風にも見えますが、実は滑ってバタバタやってるところのお写真でございます。

では、おやすみなさい。酔っぱらったらったー。

'10 05月14日 (金) 22時28分 : 錆びが染みる土

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機械が錆びて、土に染み込む。それは汚染なのか、汚染じゃないのか? 浅学にして僕はよく分からないのですが、そもそも地球の質量の35%は鉄なんだし、それほど問題じゃないような気もする。ミネラルだし、血の中も鉄だらけだ。

ただ、きっと怒る人はいるんじゃないかと思う。機械は人の業とか環境汚染みたいなカテゴリーに入れられるだろうし、土は自然の一部として理解されているだろう。だから、機械の錆が土に染み込むことを印象的に悪く思う人は少なくはないと予想する。

けれど、漁業と工業が発達した八戸で生まれ育った僕としては、錆の独特の赤い色は決して忌むべきものではなくて、むしろ産業や人々が今日も動いて富を生み出し続ける活動からにじみ出てくる汗のようなイメージを持っている。鉄はその身を挺して形を保持し、圧力を跳ね返し、富を生み出して、錆という汗を流す。その錆は雨で広がり、流され、土にも染み込んでいる。

鉄のみならず、あらゆる機械も建材も、人でさえ、錆び続けていると言える。錆びはそんな風にして、必要な役割を長い時間をかけて終えながら、土に染み込んでいく。

そんな風景を、僕は好む。

'10 05月13日 (木) 19時54分 : 歩かねば分かるまい

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学校へ行くまでに土の地面を歩く事ができる子供たちのことを考えると、うれしい。親が選んだ居住地によって受身で決まったことではあるから子供たちに非は無いけれど、日々の活動で土の地面に触れることが出来ないというのは、あくまで僕個人の趣味として言わせていただくならば、ちょっとかわいそうだ。

一方、八戸に住む子供たちなら、おそらくほぼ100%の子供たちは土の地面を踏んで通学すると思われる。これは、実にうれしいし頼もしい。季節感という情緒を知ることが出来るし、日々土や草花に触れることで免疫も鍛えられる。

ついでに言うと、土の他に「水」と「高低」と「ちょっとしたケガの危険」と「隠れられる場所」があると、より僕好みな通学路になる。流れる水に枝を投げ込んで様子を観察したり、キレイな波紋に見とれたり、生き物を発見して喜んだり。高いところに登ったり飛び降りたり、ケガしそうになったり、姿を隠す背徳的な楽しさと危険性に頭をボーッとさせたり。最近は世間が物騒だとか何とかでこういう事は口に出して言いにくい雰囲気を感じたりするけれど、やはりあくまで「僕個人の趣味」の問題として、こんな風な通学路が好きなのだ。

そんな究極の通学路の1つとして、白銀の湊変電所裏の小径を推したい。驚くべきことに、八戸では未だ、この小径である。

この小径の良さは、歩かねば分かるまいて。

'10 05月12日 (水) 22時18分 : じわーんと、波。

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港町八戸には夕日がよく似合う...と言ってしまうと「当たり前じゃんさ、そんなの!」と思われちゃいそうですが、案外珍しいんですよ。何せ八戸は太平洋側...日本列島の東側にありますから、朝日こそ見れて当然ですが(これがまたキレイ)、夕日は山に沈んじゃうはずなんです、普通に考えると。

でも、八戸って実は北に突き出た岬があって、その岬のふところに守られるように港が整備されているので...岬の先端から八戸港を見るとしっかり夕日が落ちるんです。

今日の写真はそんな「朝日も夕日も見れる2倍おトクな港町・八戸」から、漁港に映える夕日と波紋をまとめてみました。ポンポンポンという小さなエンジン音の漁船があとに残した同心円の波は、まるで空から現れた神様の指の先端がまだ水面に触れているように、真ん中からじわじわと湧いてはゆっくりと広がっていきます。

うみねこが、ミャーと鳴きます。そして、夕日が、落ちていきます。

'10 05月11日 (火) 20時41分 : 僕の青春はこんな色あい

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アイススケートの靴ヒモがうまく結べなくて、なんどもやっているうちにヒモも手袋も濡れてしまい、指が冷たくて冷たくて涙ぐんでいた小学生の頃。好きな子がたくさん持っていた蛍光ペンを眺めながら「女の子は、本当にキレイなものが好きなんだな」と感心したりドキドキしたりだった中学生の頃。黒電話でジーコジーコと電話番号を入れて、女の子に告白した高校生の頃。受験前の、あの寒い冬。

そして八戸を離れた。

18までずーっとバスに乗り続けていたから、バスはもはや「僕の青春」を具体的な形にしたもののように思える時があります。例えば上の写真のように日が傾きだしたバスの車内なんぞは、まるであの頃の心の中そのものみたいな色あいをしていて、一度目を閉じて開いたら詰襟を着てるんじゃないかって思えたりするのです。

高校生の頃の僕やら今の僕やらが大挙して乗ってるのに、運賃は一人分で済みますから、経済的です。

みんな乗ろうぜ、バス!(よく分からない締め)

'10 05月10日 (月) 19時16分 : 桜なんて一生かかっても撮りきれないので。

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八戸の桜です。ゴールデンウィークに桜が満開になる地の利を生かした観光も期待されますが、案外観光化できていない現状は桜を独り占めできてしまうので、悪い気分でもありません。

ところで、桜って撮っても撮っても満足できないんです。このキレイさを写真に納めようとすること自体がナンセンスなんじゃないかと(半分本気で)思ってたりします。例えば以下のようなテーマは、満足することを半ば諦めてるんです。

  • うみねこ
  • 八戸の朝市文化
  • 八戸の横丁文化

気楽にポツリポツリと写真を撮っていくしかないかなぁ、と。上記のようなテーマの写真をこのブログで見たら、「あ、サイト管理人が歯を食いしばって現像した写真だな!?」と思っていただければ多少救われますし、「まあまあ頑張ってんじゃね?」と思っていただければ、かなり救われます(笑)

...改めて考えてみると、要は、僕には死ぬまで撮り続けるだろうテーマがあるということなんだなぁ。ありがたいような、途方もないような。いやはや。

'10 05月07日 (金) 22時11分 : 派手じゃないけど、ちょっと泣いた。

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八戸帰省中に歩きまわった場所の中で、今回最も心に残ったのは、是川団地の西を流れる新井田川の河原です。とても静かで、派手じゃないけれど、ちょっと泣けました。

河原には鴨がいて、つばめがいて、うみねこ(!)がいて、馬(!!)がいました(また別の記事でご紹介しますね)。桜も咲いていましたが...市街地の桜ってほら、何かしらエネルギーが強いというか、人の業や欲を感じさせるケバケバしい部分があったりしませんか? 「桜の下には死体が埋まっている」と言ったのは坂口安吾でしたかね、どこかしら乱痴気っぷりというか、狂気めいたものすら感じるときがあったり、しませんか?

でも河原の桜は、人とは関係なくただ咲いているという風情が良いんです。きっと他の草花も同じように、ただ静かに春を受け入れて、うれしんでいるように思えました。そんな空気が風になって、川といっしょに流れていました。

ちょっと涙ぐんじゃったもんなー、僕。

'10 05月02日 (日) 20時21分 : じじむさい日記

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八戸で絶賛取材中なんです。今日は午後から歩き通しで少々足がくたびれたけれど、海の近くの桜はたーっぷり堪能できました。八戸はゴールデンウィークに桜が満開になる土地だから、帰省する身にはありがたい。

上の写真は、網を突き抜けて逞しく咲いている白銀中学校の桜です。やんちゃな感じが、中学校にピッタリであるなぁ...なんてじじむさい事を考えながら、今日も明日も八戸の春を堪能する所存でございます。

(最近「日記がじじむさい」と言われることが多かったので、余計にじじむさくしてみました)

'10 04月25日 (日) 15時35分 : 「函」とは何か?

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今日の写真は、八戸港周辺の倉庫や工場に囲まれたささやかな空き地に咲くタンポポです...が、実はタンポポが主役ではありません。主役は、後ろに写り込んでいる木組み。これは荷揚げされる荷物の下に敷く「パレット」と呼ばれるものですが、港町という場所はよくよく見れば見るほど木製の木組みが多いんです。荷揚げされた魚を入れるのも木箱でしたし(最近は発泡スチロールになりました)、貨物の運搬にも上のような木組みが使われます。灰色の港湾設備のあちらこちらに、箱が転がっている。コンクリート色と木の色が混じっているのが、港の原風景の色合いと言ってしまっても良いと思います。

ところで、昔は「箱(はこ)」ではなく「函(はこ)」と書いたようで、港町には大抵「◯◯函業(かんぎょう)」といった箱を作る専門の会社さんがあります。業種で言うと「製函業」。認知度は高くないと思うのですが、漁業や工業を抱える港町では、製函業も発達しているんですね。船から上げられたものを市民に運んだり、町の荷物を海の向こうのどこかに運ぶ。その時には、箱が必要。当たり前だけど、意外と知られていないですよね(かく言う僕も、2年前に初めて知ったんですが)。

八戸を含む港町は、決して海があるだけでは成り立たないんですね。たくさんの専門を持つ人たちが集まって、働いて、システムとしての港町を作り上げている訳です。そんなシステムを、もっともっと知りたいと心から思います。

'10 04月19日 (月) 21時59分 : 海の手前の坂を下る

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もしおばけを見る日がきたら、それはきっと今まで見たこともない表現であるはずだ。というか、そうじゃないと困る。安い国産映画のSFXみたいなんじゃ、超自然現象の名折れだもの。

そう考えると、やっぱりオバケはいないのかなあと思う。夢の無い話で申し訳ないけど、子供がオバケを信じるのは、見たことのある表現が少ないからではないか? とすら思える。逆に見たものが少ないからこそ子供はイマジネーションを最大限に発揮できるとも言えるような気がする。

そんな風にすっかりスレてしまった僕だけど(もちろんオバケなんてしばらく見てない、子供の頃に1回見たっきり)、相変わらず感動するのが、春という現象。ただ単に地軸の傾きが太陽のほうを向いただけなのに、どうしてこうも僕は気持ちの高揚や自然の大きさを実感するのだろう? と毎年考え込んでしまう。

北の港町・八戸の春は、海の上に巨大な噴出しのようにボンヤリと浮かんでいて、海の手前の坂を下っている時に水平線を眺めると、恐怖にすら似た気持ちになる。まるで春という巨大な生き物のふところに突っ込んでいくような、気持ちになる。

'10 04月17日 (土) 21時00分 : ヤギを見下ろす

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すいません、ただいま村上春樹の「1Q84 Book3」に夢中になっているため、本日はお写真のみの更新でございます。写真は八戸公園・こどもの国から、子どもたちでも安心してふれあえるヤギさんです。

ちなみに、ヤギと「1Q84」には何ら関連性はありませんので、ご心配なく!

'10 04月12日 (月) 21時04分 : うみねこの足かわいいよ、うみねこの足

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うみねこって、よく「顔が怖い」って言われますし、掲げたえびせんやスナック菓子に突っ込んでくる勢いも慣れてない人は身をすくめるほどの迫力です。でも、案外かわいいところもあるんですよ。

・・・足をビッと開いて人の様子を見上げて伺う彼らの、ちょっとオドオドしつつも素直な顔立ち。人が足を踏み込める日本で唯一のうみねこ繁殖地ならではの姿を是非見て欲しいなぁと心から思いますです、ハイ。

'10 04月10日 (土) 21時01分 : 八戸から×Twitter

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最近メキメキと流行りだしているTwitterには、八戸界隈の方も数多く参加されていて、八戸から離れている僕ですら八戸の今日の様子がとてもよく分かります。さらには、普段の生活だけをしていたら決して言葉を交わすことが出来ないであろう方々と直接コミュニケーションを取ることができて、いまさらながら「Twitterってスゲー」って日々感じてます。

という訳で、Twitterの中から一部発言を抜き出して一覧としてまとめるサイトを作ってみました。以下の2つです。

  1. 八戸の素晴らしさ・楽しさをつぶやいてます!「#genki8nohe : special : 八戸から
  2. 八戸のデジタル産業についてユルユル議論中!「#digital8 : special : 八戸から

八戸に少しでも想いのある方なら、きっと楽しんでもらえると思います。よろしければ、ご一読くださいませ!

'10 04月08日 (木) 21時13分 : 八戸セメント、港のオヤジ

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八戸は自前でコンクリート(慣れてる人はコンクリと言いますね)を作って、港を造れる町です。だからこそ、町の中心部から少し東、新井田の丘にニョッキリと生えた八戸セメントさんの建物は、港町八戸を支えるシンボルのように見えます。遠くから見ると立派な建物ですが、近くに寄ってみると案外普通の「工場(こうば)」という風情も残っていて、今日の写真のようにトタンが張り巡らされただけの懐かしい感じの風体を見せてくれます。もちろん、近代的なところもありますが、八戸セメントさんは規模が大きくて敷地も広いので、様々な時代の建物が混在しているのです。

何せ、新井田川河口なんぞは、水路を挟んで工業地域と魚市場が向かい合っているという不思議な光景を見せています。八戸のように工業と漁業が美しく融合した港町は、自前で港を作って自前で漁業に精を出して、自前で海を保全する事が出来るという意味で、100%海に対する責任を背負っていると言えます。自分たちを生かすも殺すも海次第、だからこそ、海をとっても大事に扱うし、その責任をみんなが理解しているという訳です。

そんな責任が、トタン一枚にもにじみ出ているのだなぁ・・・なんて思いながら八戸セメントさんの建物を眺めてみると、また違って見えるというものなのです。なんというか、オヤジの背中のような、トタンなんです。

'10 04月07日 (水) 21時06分 : 八戸フォント計画

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八戸のフォントが欲しいと常々思っている。

今日の写真は八戸に数ある愛すべき看板の一つ、「清水呉服店」さんのスーパークールなビルボードであるけれども、例えばこんな風に味のある文字をかき集めて、文字一式を作ってフォントにまとめてしまいたいのだ。きっと八戸の人なら思わずニヤニヤしちゃうフォントになるぞー!・・・ま、正直なところ、そんな野望は事実上不可能なんですけどね(写真に含まれるすべてのカンバンは著作権法46条「公開の美術の著作物等」にあたり、写真としての利用はかなり安全である一方で、加工と二次利用をしてしまうとグレーになるらしい)。

しかしながら、この写真を眺めながら思うのは、つくづく味があってグッとくる字だなぁ、と。「呉」の辺りとか、もうたまらんデス。波打つトタンの上に描かれた、直線だけの文字。それはまるで、波の揺れる大海原に立ち向かう漁師たちの凛々しい視線のように、僕には見えるんです・・・ちょっと大げさ過ぎるか。あはは。

'10 04月06日 (火) 21時11分 : 冬から届いた春のしずく

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雪が溶けて、雨が降っていないのに、むしろ晴れ晴れとした温かい午後なのに、溶けた雪のしずくが「たちたち」と落ちている。西日を受けて、キラキラと光っている。北国の人しか分からない「晴れているのに降るしずく」は、冬が降らせた雪が春を祝うように宙を舞います。

そんな一枚だとご理解いただければ光栄でございます。クサイですね、すいません。ペコリ。

'10 04月05日 (月) 21時14分 : 鍛冶町の夕闇

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とりあえず、とりいそぎ、お写真のみの更新。八戸市中心街から南に下がった鍛冶町辺りの夕闇です。春になってきて、こんな夕闇の時間も長くなってきました。今日は早めに帰宅したんですが、会社帰りの夕暮れに年甲斐もなくワクワクしちゃいました。もうオッサンな年になっても、夕方の気配や春の訪れで胸が高なるんだなぁ、と感心するやら恥ずかしいやら。おかしいなぁ、中学生ぐらいの僕は「年をとったら、いちいち小さな事でドキドキすることもなくなるだろうな」って思ってたんだけどなあ。

もういっそのこと、死ぬまでずーっと春で胸が高なるように年をとっちゃえ。

'10 04月04日 (日) 10時10分 : 青潮小学校って名前がまず良いよね。

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プライベートで遠出中につき、お写真のみの更新でございます。

港町八戸らしい「青潮小学校」という名前、いいですなぁ。小学校への看板もまた味があって、よろしい限り。こういう風情って、街が発展していく中でも残せたら良いなぁ。

'10 04月01日 (木) 07時08分 : 葦毛崎展望台の凛々しさよ

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・・・寝坊したッ! エイプリルフールだけど、ウソじゃないもの!

・・・という訳で、ひとまずお写真だけで更新でございます。今日の写真は八戸市・葦毛崎展望台を下から、のショットでございます。冬の間じーっと海を見つめ続ける展望台に立っていると、まるで展望台と僕の二人だけで不遇の海を航海しているような気分になります。海は揺れ風は冷たく、冬はやっぱりどこまでも厳しいけれど、そんな不遇の海の向こうにはきっと新しい季節があるんだとも確信しているので、北の港町に住む人はどんなに冬が厳しくても、みんな胸を張って凛々しい顔をしているような気がします。

'10 03月28日 (日) 08時23分 : 八戸市・鮫にあるシュールな看板

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八戸は哲学が盛んな町で、例えば上の写真のようなアイデンティティーに関する重大なテーゼが街中にポンと提示されていたりします。

・・・

・・・すいません、ウソです。この写真の看板は海の近く、鮫という町の商店街に掲示されていたんですが、サッパリ意味が分かりません。誰か意味をご存知のかたがいらっしゃいましたら、是非コメントをお寄せください。ちなみに、最初にこの看板を見た時は、あまりの意味不明さにちょっと寒気すら感じました。まったく贅肉のない言葉選びといい、赤いラインのデザインと言い・・・シュールだよなぁ、コレ。

'10 03月24日 (水) 21時38分 : 雪の次の日の明るい日

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雪が降った次の日、町はとても明るい。八戸は太平洋岸で冬場の晴れの日が比較的多いから、北国の一般的な「陰々滅々と続く長い冬」というイメージが通用しないところがある。上の写真の、祝福に満ちた街並みや道行く人を見ていると、心底リラックスできるような気がする。もちろん冬は厳しいけれど、少なくとも神様はとにかく僕らをとっちめようとしてる訳ではないのだな、という感じがするものだ。

子供は新雪の踏み心地を楽しみながら歩き、お年寄りは踏み溶けた道を歩く。体が動く大人連中は雪かきをしたり、このまま放っておくと凍りそうなジュクジュクの部分を道端によけたりしながら歩く。怖がることを知らない中高生はそんな道を自転車で走り、中にはびっくりするほど大きな荷物を背負ったり車に載せて引いたりしているおばあちゃんがいる。そんな景色に見とれていると、うっかり犬の小便がかかって黄色くなった雪を踏みそうになったりする。道を往くのは、人間だけではない。

そんな風にして道端に積み上げられた雪は、やがて凍ったり溶けたりしながら消えていく。雑木林の中に辛うじて溶け残っている雪を割って、春の草が顔を出しつつある。不思議なことに、明るい町並みの中ではなく、暗い林や誰も見向きもしない空き地の中から、春が始まっていく。

すっかり春が来た頃には、雪の照り返しも眩しいあの冬が、少しだけ懐かしくなる。

'10 03月22日 (月) 07時46分 : 八戸の春は、まだ来ない。

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4月のカレンダーには、満開の桜があしらってある事が多い。でも、八戸では早くても4月の末にならなきゃ桜が咲かないし、満開になるのはゴールデンウィークの間だから(実はこれはスゴイ観光資源だと思う、休日分散化法案が通らなきゃ良いのだけれど)、「4月=桜」という感じが今ひとつピンと来ない。

個人的に4月と言えば、まずはふきのとう。それから、つくし(+すぎな)。雪が溶けてグズグズになって枯れ草も濡れた地面は、草で覆われて若い緑色が満ちる。新しい根と草の葉でしっかりと固まって、野山も歩きやすい。「茶色から緑へ」というのが、4月に対する個人的なイメージ。

八戸からずーっと南に住んでいるけれど、そこで知ったのは、本当に春が一瞬で来てしまうこと。町は一斉に緑が萌えて花が咲く。それはそれで美しいんだけど、北国の春はそれに比べて実にゆっくりとしていて、じわりじわりと広がっていく。秋も同じように、北国のそれは長く、南に来ると秋という季節がまともに楽しめないぐらいに短いように思う。例えば関東以南では、9月の運動会は暑くて暑くて仕方がない。これはきっと八戸の人が聞いたら驚くのだ、だって八戸での運動会は、当然東京と同じぐらいの日付でありながら、「天高く馬肥ゆる秋」がピッタリの涼しい日和に行われるのだから。むしろ、少し肌寒さぐらい感じるのが、八戸の運動会だ。

八戸では、昨日も雪が降ったらしい。3月の雪。卒業による別れが雪で彩られる様子は、とても切なくて胸に迫る。今年の開花予想では、青森県全域の開花は4月30日ということだから、あと1月以上は桜を指折り待つことになるけれど、その分だけ野山が日に日に緑めいていく様子が楽しめる。枯れ草をかきわけて生える草の緑は驚くほど明るくて、まさに若草色といった風情だ。

そんなこんなで八戸の3月はまだまだ寒いけれど、実は東京の人にはナイショにして表情豊かで微細な春の変化を楽しんでいるから、案外みんな気分は悪くないのである。

'10 03月20日 (土) 16時50分 : カレー屋さんにラーメン屋さんを紹介された話

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八戸の話じゃないけれど、最近うちの近くにカレー屋さんが出来た。お母さんと息子さんが二人で営まれている、席数が8つ、カウンターだけの小さなカレー屋さん。注文されてから揚げ物を揚げたりハンバーグを焼いたりしてくれるし、学生さんが多い町だから量もたっぷり。しかも安い。息子さんが料理をして、お母さんがお会計とお掃除をする。

お母さんも息子さんも気さくにお客さんに話しかける。学生さんもしっかりと答える。話が盛り上がったりして(僕も以前女子大生に「同じ携帯持たれてますね」とiPhoneを指さしてニッコリされたことがある、ドキッとした)、とても良い雰囲気のお店になっている。僕は息子さんを「マスター」と読んで、マスターは僕のことを「お客さん」と呼ぶ。

というわけで、そのお店は僕のヘビーローテーションなお店へと早々に格上げされたんだけど、ある日息子さん曰く。

近所にラーメン屋さんができたらしいですよ
「はい?」と僕。
「さっき食べに来てくれた学生さんが言ってました」
「あのー、そういうのってマスターが話すのは、どうなんでしょうね?」
「いやぁ、いいですいいです。お客さんご存知でしたか? ラーメン屋」
「知らなかったです、今度行って・・・みようかなぁ?」僕は申し訳なく言う。
「ええ、ぜひ」

「ええ、ぜひ」と言うマスターは、きっと僕と同い年ぐらいなんだけど、なんとも穏やかな表情で、うらやましかった。

それで、今日そのラーメン屋さんに行ってきた。びっくりするぐらい温かくて、桜のつぼみが膨らんでいて、窓に映った自転車に乗る僕がいつもよりちょっとカッコよく見えた。お店にはなぜか50代ぐらいの夫婦が二組いて、ふぅふぅラーメンを食べていた。

おだやかな町と、おだやかな人たち。八戸から遠く西の町に住んでいるけれど、北の八戸にもやがて春が来るのだろうな。きっと八戸も、同じぐらいおだやかに違いない。

'10 03月16日 (火) 20時58分 : 好きな子を考えながら聴くラジオ(radikoに捧ぐ)

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好きな子のことを考えながらラジオを聞いていた。

あ、誤解のないように言いますと、最近じゃなくて中学生の頃の話です。

青森県の八戸市というところから東京の電波を受け止めていたから、運の悪い日は中国語か韓国語の番組が混信してきて聞けたもんじゃなかったけど、まるで脳の血管を手術するブラックジャックのような集中力でダイアルを回して周波数を合わせた。

伊集院光の番組が好きで、当時「伊集院光のOh!デカナイト」という(あまりよく意味が分からない)タイトルの番組を毎日聞いていた。正確には、月曜日から金曜日の22時〜1時、週15時間を確実に伊集院光の声を聴くために費やしていた。大人になると週一回のドラマでさえ見過ごすことがあるし、どうせ自分は見過ごすだろうと踏んだ上であらかじめドラマに注意を払わなくなったりもするけれど、中学生の僕はゼイタクに時間を使えたから(グレてもいないし彼女もいない中学生の22時なんて、絶対に絶対に家にいるのだ)、僕は延々と聴き続けた。薄着に慣れ始めた春の夜も、蚊が気になる夏の夜も、コタツ布団にうずくまる秋の夜も、静かで透明な冬の夜も、僕は少し下を向いたり目を閉じたりしながらラジオを聴き続けた。身の回りではまるで絨毯爆撃のように様々なトラブルが起きたり、不幸なニュースが伝えられたりしたけれど、僕はさながら地下深くの秘密基地で敵の電波に神経を研ぎ澄ます暗号解読班のように注意深く耳をすませていた。言い換えれば、ラジオは僕を思春期のドガチャカから隔離してくれたように思う。

そんなおかげで、僕はラジオに投稿して「Oh!デカ・カンペンケース」「Oh!デカ・スカーフ」といったノベルティグッズをもらったり、青森県出身の田舎者の割には人より早く標準語を覚えたり(都会の人が聞くと、逆にキレイすぎるぐらいだと言われたりするけれど)、勇気を出せずに好きな子に告白するチャンスをに逸したりしたのだった。

普通は1時になる前に眠くなってしまうんだけど、ラジオを聞きながら気持ちがたかぶってしまい、そのまま次の日の朝まで起きていてしまったことが、何度かあった。そんな朝には一人で外に出て、ちょっと歩いて採石場に潜り込んで、敷地を突っ切って流れる川べりで時間を潰した。しんと冷えた朝の空が、僕から中学生男子特有の青い熱気を吸い上げて、横ざまに飛んでくる朝日の光がどこか遠くに運んでいってくれた。しばらくして冷えてくると部屋に帰って一寝入りして、学校に行って、帰ってきたらまたラジオを付けた。

「今日も最低最悪の下らない放送をお送りしていますけども」

と、伊集院光は言った。

radiko

上の変に自意識過剰な文章は放っておいて、是非皆さんに訪ねていただきたいサイトが「radiko.jp」です。インターネットを介してラジオを聞けるサービスなんですが(こういう放送形態をサイマル放送というようです)、本当にハッキリ・クッキリと聞けます。ラジオの放送では特にCMの権利関係の処理がややこしいのですが、CMもバッチリ入ってます。当然曲だってかかります。何も欠けていないラジオそのものが、インターネットから聞けるんです。その意義やインパクトについては、こちらのサイトがよくまとめてくださっているので、興味がある方はこちらもご覧下さい。

パソコンでの作業とラジオ、Twitterとラジオ、忙しい毎日とラジオ・・・凄まじいぐらいの相性の良さを、是非皆さんご自身に体験してほしいと願います。そして、もし可能なら、ちょっと好きな人や大事な人のことを考えながら、聞いてみてください。きっと妙に相性が良いことに気付きますから。

ラジオの存在意義のひとつは、それを聞き流しながら、大事な誰かのことを考えるためにあると、ここに個人的に断言したい。

radiko.jp」へ

'10 03月15日 (月) 19時57分 : 昼下がりの白銀駅と、かわいい広末

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ネタが無いのでお写真だけの更新でご勘弁。昼下がりの白銀駅です。この駅はフェンスが透明な素材で出来ているので、午後の良いタイミングになるとこんな風にホームに日が入るんですね。南に太陽、北に海。絵になります。

・・・え? 写真だけの更新はダメだって?

はい、気をつけます!(この動画は爽健美茶のサイトのコンテンツみたいです。広末涼子さんって個人的にはそんなに思い入れは無かったんですけど、コレはかわいいなぁ)

'10 03月11日 (木) 07時35分 : 大雪の時、死んだじいちゃんは「かだれ」「べろ」と言った。

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大雪が降ると、じいちゃんは率先して雪かきをした。家族の中で誰が雪かきをするかについては、僕が生まれる前から決まっていたようで、黙々と耳あて付きの帽子をかぶり、水を撥ねるズボンをゆっくりと履いていた。あまりにも雪が多い時は、一旦外に出て行った後すでに真っ白になっている姿で、

「かだれ」

とじいちゃんは言った。これは「一緒に来い」という意味。「加担しろ」→「加担すれ」→「かだんすれ」→「かだれ」という原義かなぁ? 不安だけど、とにかくそういう意味だ。一方、小さい頃の僕は雪かきが当然ヘタだから、自分には持ち上げられないぐらいに大きな雪の塊に四苦八苦したり、もう一度雪かきしなきゃいけない場所に雪を投げてしまったりする。すると、じいちゃんは僕のスコップを取って軽々と雪を投げながら、

「べろ」

と言った。この言葉、最初は本当に意味が分からなかったんだけど、よくよく考えると、こういうことだった。

  1. 「べろ」
  2. →「おべろ」
  3. →「おぼえろ」
  4. →「(やり方を)憶えなさい」

そんなこんなで雪かきが終わると、ばあちゃんがコーヒーを入れてくれた。じいちゃんはそれをゆっくりとゆっくりと飲んだ、そのコーヒーはばあちゃんの気持ちがこもった甘い甘い飲み物だった。じいちゃんは死んでしまったし、ばあちゃんもいよいよ年だけど、あのじいちゃんの力強さと、ばあちゃんのコーヒーの甘さは、僕を守ってくれていた力の象徴にように、今も思い出される。だからこそ、今度雪が降ったら僕が雪かきするんだ、と思うのだろう。

北国の人は、そんな風にして今日も雪かきを憶えている。

'10 03月10日 (水) 07時08分 : ああ寝坊

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2日連続で寝坊してしまいましたので、こんな動画でもどうぞ。トランペットを「歌う」女性です。すげーですよ。

では、いってきます!

(あ、ふと思い出したんですけど、昔バンドの練習に寝坊したことがあります。そのバンドはイベント向けの急ごしらえのバンドだったんですが、普段から演奏のクオリティ等でイライラしていた気の短い2年上の女性ボーカルの人にキレられました。ああ、思い出したら余計ヘコんでしまった、なんで思い出したんだろう)

'10 03月07日 (日) 08時20分 : 吉幾三「俺ら東京さ行ぐだ」マッシュアップ・俺的ベスト7選+1

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2008年の春頃、突如としてニコニコ動画に巻き起こった吉幾三「俺ら東京さ行ぐだ」ブーム「テレビもねぇ ラジオもねぇ」と言えば皆さんご存知、吉幾三の出世作となったコミックソングが、様々な楽曲と掛け合わされ(ネット上ではマッシュアップと呼ばれます)、一大センセーションが形作られてから早2年が立とうかというところですが、良い作品は未だ色褪せない魅力があり、再生数もコツコツと伸び続けています。さらには、「コメントによって動画がより面白くなる」というニコニコ動画の特徴がゆえに、発表当初・ブームの渦中よりもさらに面白くなっている動画すらあるんです。そこで、僕の独断と偏見での吉幾三マッシュアップ動画ベスト7をここでまとめたいと思います。

第7位

第7位は、B'zのギタリスト・松本孝弘が作曲したミュージックステーションのオープニングテーマ「#1090 Thousand Dreams」とのマッシュアップです。

ニコニコ動画での吉幾三ブームに乗じた楽曲の中では比較的早めの発表ながら、選曲が見事。中盤のギターソロで脅威のシンクロを達成していて、爆笑しつつも唸らされてしまうこと請け合いです。

ちなみに、ニコニコ動画内の吉幾三マッシュアップ楽曲には「スンクロ率441.93%」というタグがよく付けられます。スンクロとは当然シンクロの訛りであり、シンクロ率という表現はエヴァンゲリオンの引用と思われます。言葉ひとつとっても、少しでも楽しくしようという行為に満ちているのがインターネット上における特徴的な行動ですね。

第6位

第6位は、アニメ「COWBOY BEBOP」のオープニングテーマ「Tank!」とのマッシュアップ。ノリの良いジャズ構成のインスト曲、冒頭の「ガッ!」の掛け声から一気に乗せられちゃいます。さらには、吉幾三の声の音程を替えて楽曲に合わせて歌わせるという芸当まで実現していて、元曲の良さと相まって一気に最後まで走り抜けてくれます。

そうそう、冒頭を含め何度も使われる「ガッ!」という吉幾三の叫びには、「GOD!」という字幕が入れられていて、これがまたバカバカしいやら何やら。動画のクオリティに応じて、そこからさらに価値を生み出すコメントが集まってくるのが、ニコニコ動画の真骨頂です。

第5位

第5位は、なんと3曲のマッシュアップ。アニメ「らき☆すた」オープニングテーマ「もってけ!セーラー服」と、インド人歌手ダレル・メヘンディの「Tunak Tunak Tun」、それに吉幾三がプラスされます。

・・・なんでインドの歌? と思われるかもしれませんが、この曲は2007年からニコニコ動画では有名な曲で、陽気なインド人のおじさんがエエ声で踊りまくりながら歌う曲の楽しさと、ニコニコ動画では定番ネタの外国語の空耳でブームになったことがあるんです。それに、アニメのブームと楽曲のインパクトによって「もってけ!セーラー服」がマッシュアップされ、さらにプラスして吉幾三が乗っけられたわけです。

3曲の音が入り交じっているので、当然混沌としてはいるんですが・・・なんだろうか、このエネルギーは! 「Tunak Tunak Tun」の民族めいた力強い声と、吉幾三の方言丸出しの声が混ざり合って得た力強さを、「もってけ!セーラー服」の狂気めいたグルーブが加速して、これぞ渾然一体。

一方、動画のほうが「Tunak Tunak Tun」のプロモーションビデオを採用しているんですが、そこではインド人歌手のダレル・メヘンディが馬車にのって町を駆け抜けるというもの。凄まじいほどの楽曲に応えるコメントは、この動画部分を再解釈して、青森から東京までの道中であるかのように東北各地の地名で応酬します。激しく踊るインド人を載せた馬車の疾走に合わせて、「青森県庁前出発」「馬淵川」「目時」「ただいま小牛田駅通過」なんて具合に東北の地方都市を通過中であるかのような演出のテロップが入れられて、もうたまりません。

第4位

第4位はなんと、ソウルの神様・ジェームス・ブラウンの登場です。「Turn Me Loose, I'm Dr. Feel Good」で、ジェームス・ブラウンと吉幾三が対バンです。このあたりから、動画のクオリティもハンパないです。甲乙付けがたいし、作品としてお金取れるレベルに入りつつあります。

楽曲だけでなく動画もスゴイこの作品、見ていただければスゴさは分かってもらえると思うんですが、一言で魅力を伝えるなら・・・実際に投稿されたコメントから、以下の一言を引用しましょう。

吉幾三がジェームス・ブラウンを食ってるwww

振り返ってみると、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」は、何にも無い田舎を嘆いて東京を夢見る若者の歌。ソウルからブルースへの系譜と通じるところがあって、そんな生活の辛さを陽気さで跳ね返す音楽として黒人音楽はそのルーツをアイデンティティとしています。さらに言えば、ラップもそんな黒人音楽の流れに乗っていますから、吉幾三はそんな音楽の歴史と青森を見事に結びつけていると言えるのかも(?)しれません。かつて北島三郎は「演歌は日本のソウルだ」と言いましたが、コミックソング・歌謡曲として生まれた「俺ら東京さ行ぐだ」もその系譜として異色ながらも確かなアイデンティティを持っているように思われます。

第3位

ジェームス・ブラウンの次は・・・マイケル・ジャクソン! ジャクソン5「I want you back」とのコラボでも、吉幾三は相変わらずのハッスルっぷり。とびっきりの楽曲と最高の動画に応えるかのように、「寂村5(ジャクソン5)」「牛村(モータウン)」というハジケっぷりのタグが付けられています。

心から楽しいジャクソン5の原曲に、吉幾三の「ハッ!」「ガッ!」「あーソーレッ!」「あーヨイショッ!」の愛の手が凶悪なまでに相性が良くて、聞く度にテンションが上がるんですね。まるで毎日の生活の苦しさを忘れさせてくれるような・・・まさに、第4位でも挙げた黒人音楽的な開放感が楽しめます。だからこそ、こんなコメントが寄せられることになるんです。

悩みがひとつずつ消えていく・・・

俺なんでこんな動画で泣いてんだwww

便秘が治りました。

足袋にニッカポッカ・ねじり鉢巻に消防団の半纏に茶色いサングラス、そんな吉幾三が足を放り出して飛び跳ね、田舎らしい人懐こい笑顔でシャウトする。その姿は何故かすべてを受け入れるような穏やかな優しさに満ちていて、黒人音楽的な開放感と相まってヒーリング効果すら持ち始めている・・・なんていうのは言い過ぎですが、少なからずユーザに響いている様子を見るとまんざらでもないと思ったりもするのです。かつてニコニコ動画では「YATTA!」のブームがありましたが、この曲も同じような全肯定による開放感・癒しがコアにあって、長引く不況の閉塞感に満ちた時代が裏付けになったブームの一種かもしれないと分析するのは、さすがに考えすぎかもしれませんね。

第2位

いよいよ第2位。民族音楽・ソウルと続いてきましたが、次はまさかのTMネットワーク。アニメ・シティーハンターでも使われた大ヒット曲「Get Wild」とのコラボレーションです。まさしく「まさか!」の取り合わせながら、スンクロ率はハンパじゃありません。TMネットワークのライブ動画を編集して、絶対にあり得ないライブを作り出してしまいました。

そもそも、「オラの村には電気が無い!」という歌なのに、電子音楽の申し子・小室哲哉率いるTMネットワークとコラボってだけで面白い。ボーカル宇都宮隆のダンスも「2010年最新の種まきスタイル」と揶揄され、ギター木根尚登のギターソロも「俺ら東京さ行ぐだ」のイントロのギターに差し替えられてしまっています。

そんな動画の中で特に刮目すべきは、派手なTMネットワークのライブパフォーマンスに挟み込まれる、白黒の吉幾三。テレビの音楽番組で片手をマイクに、片手をズボンのポケットに入れて歌う吉幾三をゆっくりズームしていくカメラ。80年代から90年代初頭・ポップス全盛期の雰囲気が乗り移った「Get Wild」をBGMにして歌う吉幾三が、妙にシブくてカッコイイんですね。

第5位〜第3位の吉幾三は肯定感・開放感といった要素を醸し出していましたが、この楽曲に至ってはダンディズムのような雰囲気すら滲ませる吉幾三を、是非ご堪能ください。

第1位

そして1位は・・・かなり究極と言ってもよいかもしれません、4曲のマッシュアップです。

  1. Daft Punk「Technologic」:フランスのテクノ/エレクトロユニット。楽曲は2005年。
  2. Beastie Boys「Ch-Check it out」:アメリカのハウス/ヒップホップユニット。楽曲は2004年。
  3. Capsule「STARRYSKY」:日本のテクノ/レレクトロユニット。楽曲は2006年。メンバーの中田ヤスタカはPerfumeのプロデューサとしても有名。
  4. 吉幾三「俺ら東京さ行ぐだ」:青森出身の演歌歌手。楽曲は1984年。

・・・なんともスゴイ取り合わせですよね。ま、とにかく、聞いてみてください。

この奇跡のようなマッシュアップには、一朝一夕にできたものではありません。まず、吉幾三以外の3曲のマッシュアップがまず(吉幾三とは関係なく)作られました。このマッシュアップは海外でも評価されるほどのクオリティの高さで、一時ネットでも話題になりました。そんな最中の、吉幾三ブーム。さらに1曲マッシュアップされ、4曲マッシュアップが完成したというわけです。

結果として吉幾三対フランス・アメリカ・日本のアーティストという形になるこの楽曲ですが、優れたアレンジ・動画・コメントによって、見事に吉幾三的要素が花開いています。楽曲冒頭の「Buy it Use it Break it Fix it...」というフレーズは、Daft Punkの「Technologic」からの引用ですが、吉幾三の「テレビもねぇ ラジオもねぇ」と見事に呼応しています。Beastie Boys の3人のMCによる都会的な白人の若者らしいラップと、青森の田舎者の方言によるラップの対比も素晴らしいし、Capsuleの女性ボーカルの透き通った歌声と吉幾三の合いの手の不思議な調和といったら!

そして何よりスゴイのが、Beastie Boys のラップとCapsuleの女性ボーカル部分の英語の歌詞に乗せられた和訳の歌詞です。元の歌詞とはまったく違う適当な歌詞であり、4曲のマッシュアップを成し遂げた作者とは別人が創作した文章なんですが、そのフェイクの歌詞を一部ここに引用してみます。

まずは、Beastie Boysのラップ部分。生意気な素振りの白人の若者が、こんなことを言うんです。

田舎がイヤだからって 若者が都会に出て行くって?
職は中国人にとられて 商店街はシャッター通りだ
農業じゃ食っていけねぇから 若者はみんな出稼ぎに出るんだ
いつか暮らしが良くなって 帰郷できると信じて、わかるか?

1つだけよく考えてみろよ 今後の農業のあり方について
都市と農村の格差は何だ!? なぜ若者は村を去る?

この歌詞が、ニコニコ動画を見ている若い世代によって書かれたものであることに注目してください。若者が生まれ育ったふるさとを去らなければならない不条理や、都市と農村の格差に対する苛立ちが、はっきりと表明されているんですね。

さらにスゴイのが、Capsuleの女性ボーカルによって歌われる部分。少々長いですが、ちょっと読んでみてください。

貴方と歌ったじょんがら節 貴方と眺めた八甲田山
二人でかじったサンふじの甘さも 私はずっと忘れない
一人で歌うじょんがら節 一人で稲を刈る事も
何故か私は耐えられるって あの時だけは思えてた

星空の下で見送った「はくつる」 だんだんと小さくなる貴方を見たベゴが
ポツリと小さく鳴いた 今まで聴いたこともない声で

「もっとお洒落になりたい」「もっとビックになりたい」
こんな村はイヤだと言って 飛び出した都会に何も無くても
夜の星空が 私たちを繋いでくれてるよ
だから泣かないで 都会のネオンに埋もれても

貴方と夢見た新幹線 貴方が乗った寝台列車
状況が二人を引き裂いても 私はずっと忘れない
今年も雪が綺麗だよ 今年も私は元気だよ
いつか戻ってくれるよねって あの時だけは信じてた

田舎を去った若者を、田舎に残って慕い続ける女性の想いが歌われています。青森らしさ・吉幾三らしさを出すためのふざけた歌詞も一部ありますが、内容はとてもシリアスで切ないものです。今は廃止になっている寝台急行「はくつる」で彼氏を見送った女性が、それでもなお「今年も雪が綺麗だよ」と空に語りかける様を想像すると、なんと泣けて来さえすらするんですね。

Daft Punk・Beastie Boys・Capsuleとのマッシュアップによって、吉幾三のコミックソング「俺ら東京さ行ぐだ」は、社会問題を訴える歌になり、はたまた状況で引き裂かれた男女の想いを立体的に描く歌にすらなっているのです。これはもはや、田舎という現象を構造的に描いたエピック(叙事詩)と言ってしまって良いものだと思います。

そんな3組が紡ぐ楽曲の中で、吉幾三は叫び続けます。そしてそんな叫びには、こんな一節が、名もなきニコニコ動画ユーザによって付されているのです。

オラの村には元気がねぇ!!

バカな事をしているなぁと最初は笑っていたユーザも、楽曲の後半には感動し涙を流す人もいるのも頷ける話です。その証拠に、この楽曲はもう少しで100万件の再生を達成します。この再生数は、ニコニコ動画にある数百万にものぼる動画の中で10000分の1の動画にしか与えられない圧倒的な支持の証拠なのです。

2008年のその一瞬、吉幾三は時間を飛び越えて、鍬をマイクに持ち変えた手で、確かに若者の心を掴んだのです。

あとがき

爆笑もあれば、感動もある一連の吉幾三「俺ら東京さ行ぐだ」マッシュアップブームはここのところ一段落していましたが、去年の年末に「吉幾三生誕記念2009 大吟醸 '09」と銘打たれた総勢38人による吉幾三マッシュアップメドレーが公開され、大ヒットしたりもして、まだ完全に終わった訳ではないようです。この新作動画では「俺は田舎のプレスリー!」「Dream(新日本ハウスCMソング)」など新しい曲のマッシュアップが試みられ、より一層力の入った映像と共に構築されることにより、正直「プロが作ったんじゃないか?」と疑いたくなるほどの出来を達成しています。

1984年の楽曲が、インターネットでコミュニケーションをするのが当たり前の世代に再評価されました。さらには、様々なマッシュアップやコメントによって価値が増殖され、楽しまれました。約25年という、親と子ほどの世代の差が一瞬で埋まったどころか、より大きな価値へと転換したんですね。

それは別に、都市と田舎の格差の問題のような社会的な態度から起こったブームではありません。ただ面白かったから、エネルギーがあったから、流行ったまでのことです。しかしながら、吉幾三が曲にしたためた中で心によぎったかもしれない田舎に対する様々な思いは、時間も空間も意味を成さないインターネットの世界で、たくさんの若者の心に響いたことは間違いないでしょう。

これからもこのブームが続いていくのか? とか、都市と田舎の問題はどうなるのか? とか、そんな事は一切予想がつきません。しかし、これだけは確実に言えることでしょう。若者たちが時代を超えて良いものを楽しみ、意味を見出し、育てていくセンスは、絶対に確かなものだと。

'10 03月06日 (土) 21時26分 : 「占いは信じてないんだ。」

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ちょっとした懺悔というか、一部の人には謝る他無いんですが・・・僕、占いというものを一切信じてないのでございます。だから、例えば学生時代にお世話になったあの方とそのご家族と盛り上がった血液型占いトークも、心の底では「占いは信じてないんです、ごめんなさい」と思いながら聞いていたりしたんです。会社の同期と盛り上がった子供の命名における字画の問題も、「なんでそんなんで人の運命が変わるんだ、そもそも現代日本の漢字だって、数十年のレベルで形や字画が変わってるじゃないか」と思ってたりしました。

性格悪いよなぁ。

・・・とは言いつつも、まったく占いというものに対して聞き耳を持たない訳でもなくて、それこそ荒唐無稽に思える占いであっても、そのとおりに行動することはあります。例えば・・・

  • 今日は交通事故に気を付けなさい。
  • 食べ過ぎ注意。
  • ラッキーアイテムは、ホッチキス。

なんていうのを聞くと、けっこう守ることにしています。というのは、占いはまったく荒唐無稽であるからこそ、以下のような側面があると思うからです。

  • 占いとは、ランダムな教訓発生装置である。
  • 占いとは、ランダムな行動発生装置である。

普段の生活に油断しているとうっかり忘れてしまう教訓の類とか、平板な毎日で行動がパターン化してしまっていることを思い出させる装置としては、占いというのもは案外優秀なんじゃないかな、と思うわけです。「ラッキーアイテムは、ホッチキス!」なんてバカバカしいぐらいの占いだけど、言われた日は「ホッチキスを使うと効率的になる仕事は無いかな?」とか、「ホッチキスの針ってまだ十分あったっけ?」なんて無理やりホッチキスについて考えるようにしています。それがまた、存外に面白いことがあったりするから不思議なんです。

というわけで、僕は占いを一切信じていないけれど、案外聞いてますので、占い好きの皆様におかれましては・・・ご容赦ください(汗)

今日の写真

今日の写真は、陸奥湊近くの洋服屋さんの「靴の中敷き大セール」です。売り場を埋め尽くす、靴の中敷き。「今日のラッキーアイテムは、靴の中敷きです!」と言われた日にも安心の品揃えでございます。

'10 02月27日 (土) 07時22分 : どこか気になる3題

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最近、ちょっと気になってることってありませんか? 僕にとってちょっと気になる話題を3つほど。あくまで「ちょっと気になる」程度なので、そのあたりはよろしくです。

ひとつめの、気になる。

中堅どころの2ちゃんねるまとめサイト「ムズ痒いブログ」さんから、こちらの記事をご紹介。短い名言なので、そのまま引用します。

   r ‐、 
   | ○ |         r‐‐、
  _,;ト - イ、      ∧l☆│∧  良い子の諸君!
(⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l  若者の○○離れとよく耳にするが、
 |ヽ  ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒)  当時群がってたのは今のジジババ共だ!
│ ヽー--'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /|  今の若者は、離れるも何も
│  〉    |│  |`ー^ー-- r' |  最初から近づいてすらいないな!
│ /───| |  |/ |  l  ト、 |  
|  irー-、 ー ,} |    /     i      
| /   `X´ ヽ    /   入  |

なんだか頭が悪い「若者の◯◯離れ」現象が多数報告されていますが(当然それらは根拠が薄いことが多い)、そんな言われも無い批判をアッサリとうっちゃる頭の良い一言。気持ちイイ。僕も一般的なマスコミによると「◯◯離れ」を引き起こしている元気のない世代のひとりらしく、アホらしいとは思いつつも少々気になっていたのです。

ただし、上の引用の中で「ジジババ共」というところだけは、修正したいかなあ。上の世代の人たちだって、昨今の若者叩きのバカバカしさについて理解している人のほうが多いだろうから。

気になる、ふたつめ。

一気にアルファブロガーに上り詰めた「俺の邪悪なメモ」さんの記事「外国人参政権反対派の「たったひとつの冴えたやり方」」をご紹介。政治ネタですので、お嫌いな方はスルーしてください、すいません。

外国人参政権について民主党・社民党が積極的に進めている今、反対派のロジックが「冴えない」とこのブログの筆者さんは指摘します。この点、言われてみて僕もそのとおりだと思ったんですが、確かに「危険!」「憲法違反!」なんて連呼していても心に響かないというか、どうしても政治的な話題が持つ独特の閉塞感のようなものから逃げ切れていないように感じていました。そんな現状を根本から解決する「たったひとつの冴えたやり方」を、こちらのエントリで言い切っています。

僕や皆さんの外国人参政権に対する考え方はひとまず置いておいて、以下の一節だけを引用したいと思います。

だから、外国人参政権反対派の人は、外国人差別に反対し徹底的に戦うべきなのです!
これが俺の考える「たったひとつの冴えたやり方」です。

素晴らしい。それだ。是非、リンク先の原文もお読みいただければと思います。

最後の、気になる。

バンクーバーオリンピックでも最注目の女子フィギュアの結果が出ましたね。日本が金メダルを取れなかったのは残念ではあるものの、個人的には勝負のアヤというものもあるだろうと思っているので納得はしているつもりです。あくまで、得点の比較としての勝負については。浅田真央との比較は置いといて・・・キムヨナの得点は、高すぎじゃないだろうか? 採点基準が男女共通のフィギュアにおいて、男子よりも上って、どういう事? それに、歴代最高得点かぁ・・・過去のどの滑りよりも良いものとは、思えなかったんだよなぁ、正直・・・。 

で、ちょっと調べてみると、どうにも色々お考えをお持ちの方がおられるようで。

上記のエントリでのポイントは「浅田真央のほうが演技構成の難易度が高いこと」「加点システムの有効性」の2つにまとめられるかと思うのですが、そういった具体的なことがよく分からない僕としては、「なんか実感に合わない点数だな」とだけつぶやいておきたいと思います。男子フィギュアでも先日プルシェンコのジャンプに対するジャッジで議論になる場面がありましたが、キムヨナの男子をも凌駕する女子歴代最高得点についても議論になるのか、少し気になります。

繰り返しになりますが、キムヨナ自身を非難するつもりもなければ、浅田真央が真の金メダルだ! なんて言うつもりもないんです。非常に語弊のある発言ですが、どうせなら接戦のポイントでキムヨナに勝ってもらえてたら、こんな気分にはならなかったんだろうけどなぁ。

'10 02月24日 (水) 22時55分 : 八戸の昔話「鯨石」

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八戸に古くから伝わる昔話「鯨石」をどうぞ。

アニメの中では「鮫浦太郎」という名前がくじらに与えられていますが、現在では「八戸太郎」と呼ぶことが多いようですので、伝承を調べられる場合は、「八戸太郎」でご検索くださいね。

また、アニメの中で鮫浦太郎が瀕死の傷を負った場所は「熊野」であるとされていますが、熊野とは現在の和歌山県・三重県辺りを指し(現存する熊野市は三重県にあります)、このあたりが日本における鯨漁の発祥の地なんですね。当時は「くじら」とは呼ばずに「いさな(勇魚)」と呼んでいて、豊臣秀吉の政策によって日本近海での戦争が禁止されてから、海賊や沿岸警備のための武力を持っていた人たちと漁師たちが力を合わせ、強大な力を持つ鯨に対してはじめて対抗し得る力を得たのだと言われています。中沢新一「純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)」で日本の捕鯨についてわかりやすくまとめられている部分がありますので、ご興味のある方はどうぞ。

・・・さて。八戸市の西宮神社に今も祀られている「鯨石」を紐解くと、日本における鯨漁の発祥にまでたどり着きます。日本国内に存在する様々な鯨に対する態度が、海や鯨を媒介にして互いに影響しあっていたからこそ「鯨石」という物語ができたのだと考えると、さらに深くこの物語の面白さを味わえるように思います。

'10 02月23日 (火) 23時13分 : 「ぐずぐずなところあるよね、俺たちって」3題

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僕を含めて、案外ニンゲンってぐずぐずなところもあるよねぇ・・・って気持ちにさせてくれる痛し痒しな話題、3つでございます。なお、本日の3つのテーマのうち、1つ目と2つ目は「lovefool」さんがネットから探されたネタです。もう本当、このサイトさんの情報収集能力はバケモノか! といつも思います。

ひとーつ。

2ちゃんねるオカルト板まとめ」さんの記事「有名人・芸能人が言い放ったインパクトのある一言」とから(強調は引用者)。

深キョンはヤッターマンのインタビューで「こんなこと言うと反感を買うのを承知して言いますが、自分は年を重ねてからこそにじみ出る'女性の内面の美しさ'なんて全然信用してない。シワとか自分に絶対に出来てほしくない、年とるのがとてもこわい」と語っていた。

あれほどキレイな深田恭子でさえも、今でいっぱいいっぱい。年をとったからといって、ご褒美のように美しさがにじみ出てくるなんて、これっぽっちも信じていないと言う。

僕はというと、お酒を飲んだりクダを巻いたりしながらも「年をとったら俺も大きくなるかもよ?」なんて悠長に構えてる。ぐずぐずなのって、俺だったのだな、と。こういう厳しい事は普段からグチグチと言われると堪えるけれど、深田恭子のような人の口からこれだけピシャリと聞かされたら・・・キキました。

ふたーつ。

医療の現場から、リアルで深い思索を読ませてくれる有名ブログ「レジデント初期研修用資料」さんのこちらの記事から(強調は引用者)。

「人を動かす方法」は、アンケートでは調査できない

同じ品質、同じ量のアイスクリームを、「四角」と「丸」、別の容器に入れて、価格を揃えて販売すると、「丸」い容器のほうが圧倒的に売れる。それがマーガリンなら、白いものよりも、黄色く着色したほうが売れる

ユーザーに「どんなアイスクリームが食べたいですか ?」なんてアンケートを行ったところで、「丸い容器がいい」なんて回答は得られない。誰もが自分は「自分は頭がいい」と思っているから、アンケートには「品質がいいもの」だとか、「環境に優しいもの」だとか、考えているようでいて、自分の購買を促した何かとは全く異なった答えを返す

丸いアイスクリームを購入した人に種明かしをして、「どちらも同じだったんですよ」なんて指摘したあとでさえ、たいていの人は気取ろうとする。素直な人なら、「こっちのほうがおいしそうに見えたから」なんて感想を述べるだろうけれど、「頭がよく見られたい」ほとんどの人は、「丸い容器のほうが丈夫」だとか、「丸い容器のほうが環境により優しい」だとか、種明かしをされるほんの一瞬前まで、想像もしていなかったような「事実」を、その場で創作してみせる

企画屋として、上のような「人は何を理解して行動しているのか」は本質中の本質で、恐ろしい事に僕も同様の認識を持っています。人は、自分の行動原理を言葉にすることが著しく苦手で、適当なロジックで自分の正当性を埋め合わせているという一般消費者モデルを、僕は常に用いています。つまり、アンケートしても本質は聞こえてこないし、もっと言えば「その人と膝を突き合わせて語り合ったところで、ぐずぐずになってしまう事は往々にしてある」と考えています。

だからこそ、自分もそんなぐずぐずなニンゲンだと理解しておかないと、僕みたいな弱いニンゲンはうっかり誰かを「わかってないなぁ」と蔑んで見てしまいかねない訳で、これはなかなかタフな課題だったりします。

みーっつ。

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民主党・石井一選対委員長の長崎県知事選での発言(強調は引用者)。

時代と逆行するような選択をされるのなら、民主党政権は長崎に対してそれなりの姿勢を示すだろうと私は思います

こちらのサイトに動画もあります。こんな発言が一日でシュンと収まってしまうマスコミをおかしいと思わない人は、もう選挙に行かないほうが世のためだと思いますよ。民主党支持だろうが自民党支持だろうが、どの政党を支持している人でも関係ないです。これはおかしい。ぐずぐずにしたまま放っておいちゃイカンと思う。いつ八戸に同じ事が起こるか分からないもの。利益誘導に恐喝紛いの言動ときましたからね、地域主権のカケラもありゃしない。

3つのテーマの中で、これが一番わかりやすい「ぐずぐず」でしたね。いやはや。

'10 02月22日 (月) 22時24分 : 子供が語った人生の理解の仕方

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世界のニュースを紹介してくれる有名ニュースサイト「らばQ」さんから、「犬が生きてきた目的...心に響く、ある獣医の手記」という記事をご紹介したいと思います。

シェイン君が理解する「生きること、死ぬこと」

6歳の男の子・シェイン君とその両親の家で飼われていたベルカー君という犬が、治療不可能のガンにかかり、家族みんなで見守る中で安楽死させることとなりました。シェイン君の目の前で処置は行われ、ベルカー君は静かに息を引き取りました。動かないベルカー君を前にして、処置を行った獣医と家族が語り合う中で、大人たちですら受け入れられ難い「動物の命は、人間よりも短いのだ」というシンプルな事実について、シェイン君が驚くべき発言をするのです。

以下、ベルカー君との別れの場面から抜粋します(強調は引用者)。

数分のうちにベルカーは安らかに、眠るように息を引き取った。
シェインはベルカーの変化を特に混乱することもなく、難なく受け入れたようだった。私たちはベルカーの死後、しばらくそこに座り、動物の命が人間のものより短いと言う、悲しい現実について話し合った。静かに会話を聞いていたシェインが突然、「どういうことか、わかるよ」と言った。
私たちは驚き、全員が彼の方を向いた。彼がそのときに放った言葉は私を驚かせた。それまで、これほど心地よい説明を聞いたことがなかったからだ。
彼はこう言ったのだ。
「人は、いい人生の過ごし方を学ぶために生まれてくるよね?いつもみんなを愛することとか、人に優しくすることとか。だよね?」
そしてその6歳の少年は続けた。
「ほら、犬はもうそれをすでに知ってるんだから、そんなに長いこと、この世にいなくていいんだ」

人間と犬という異なる種の間では、生きられる時間も違えばコミュニケーションの手段も違います。しかし、たった6歳のシェイン君は、そんな断絶された2つの生き物を「いい人生を学ぶために生まれてくるもの」と包括した上で、「犬は既にそれを知っている」と言い切りました。最愛のペットを失った悲しみや、目の前で唐突に起こった死という現象の理解し難さといったものを、シェイン君は大人には出きない方法で飛び越えたんだと、僕は思います。

人が大人になるまでの間に失っていく(のかもしれない)非常にプリミティブで純粋な「世界の成り立ちを理解し、受け入れる力」をシェイン君はきっと持っていて、そんなみずみずしい心の有り様が成し遂げた生と死の不条理に対する理解を、大人にでも理解できるシンプルな言葉にしてくれたような気がして、僕はしばらくこの文章の前で立ち尽くしてしまったのでした。

6歳の子が、「人は、いい人生の過ごし方を学ぶために生まれてくるよね?」と、あなたに確認めいた質問をしています。あなたは、どんな風に返事をしますか? もし僕が応えるなら、精一杯の笑顔で「そうだね」と肯定したいと思います。

'10 02月20日 (土) 17時48分 : 陸奥湊の道端の迫力がスゴすぎる

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港町八戸には昔ながらの・・・というか、原始的と言っても良いぐらいの朝市が立つことが文化になっていて、陸奥湊という場所でも「売り物を置いておく、誰かが買う」という感じの素朴で'(良い意味で)粗野な市場の形態が見られるんですが・・・上の写真は、そんな町のヒトコマです。

ただの道端に小さな敷物をしいて、そこに普通のおばあちゃんが座ってモノを売るんですね。現場を見ていただければきっと伝わると思うのですが、スゴイ迫力です。

  • 普通のおばあちゃんが真冬の早朝からしばらくの間「外に座っている」のがスゴイ。
  • しかも、座っているすぐ横には雪が積もっている。強烈に寒そうなのに、おばあちゃんは意にも介さない。
  • 郵便局の入り口に近いところに店を開いているのがスゴイ。郵便局の皆さんが地域の文化を理解されているからできる。全国でユニバーサルなサービスを展開する郵便局が、港町八戸の朝市文化を受け入れているのだから。
  • お店のすぐ前を車が走ります。それも、卸の業者のトラックです。ここでは、卸と小売の両方がいっしょくたに混在しています。というか、そもそもそういう区別が無いのです。
  • 値段だっておばあさんの言い値です。交渉はできますが、価格.comのような「客観的に値段の適正さを判断する手段」が無いので、最後は自分の裁量で値段を評価しなければなりません。
  • こんな風なおばあちゃんが、道端に何十人と座っているのです。そして口々に「見でけでー!」「買ってげー!」(見てちょうだい、買ってちょうだい)と叫んでるんです。

・・・スゴイです。これだけ差別化されたものがあるんだから、八戸市民の皆さんは誇っても良いと思うし、よその人は見に行っても良いと思うんですよね。そして最後に付け加えるならば、まだまだ僕が気付いていない価値が、きっと陸奥湊の道端で今日も眠っていることでしょうから、それを見つけに行きたいと思っていたりもします。

陸奥湊の道端の迫力がスゴすぎる、というお話でした。

'10 02月19日 (金) 00時09分 : 分からない魅力、帰る場所

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出張中につきお写真のみで更新シリーズもいよいよラスト。今日の写真は蕪島付近から見上げる高台のくさむらです。撮影している間は「なんで俺、こんな場所を撮ってるんだろ?」なんて思いながらだったけれど、八戸を離れてから妙な力がある写真が時々あって、これもそんな一枚です。僕が一体どんなところで八戸に魅力や郷愁を感じているのか言葉にするのはとても難しいことだから、時々こんな風に写真だけでコミュニケーションをするのもアリかも、と思ったりします。

とはいえ、いい加減出張三昧もしんどくなってきましたし、さすがに写真ばかりのコミュニケーションも不安だったりしますので、今週末からは家でゆっくり更新作業をしようと思います。今週までガマンして見てくださった皆様、本当にありがとうございました。

明日、家に帰ります。八戸に帰れたら、いいのにね。

'10 02月17日 (水) 21時52分 : 文化としての建物

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出張中につきお写真だけで更新シリーズ、今日は八戸の中心街から少し南・内陸部に向かった鍛冶町にあるシブイ建物です。この辺りは道沿いに商店が並んでいて、八戸の最盛期には吹上・長者近辺の食卓と生活を支えました。現在は時代の変遷でシャッターがしまっている建物もちらほら見えますが、建物自体の上品な造りや坂道をそのままに残す街道的な趣は、今もこの辺りに一種の気品として満ちています。漁師町・工業都市として粗野ながらも粋で温かい人情を育んだ土着の文化と、高度経済成長期に中央から憧れを以て受け入れられた都会の文化。それらは混じり合い、今もなおその香りは失せません。

日本全体が上向いていたその頃、新しいものを「文化○○」と呼ぶ風潮がありました。文化包丁、文化住宅、文化放送なんていうのもその流れで名付けられたものです。かつて、文化とは「新しいもの」を指したのです。

しかし、2010年に至り、八戸から離れて暮らす僕が旅人として八戸に降り立って思うのは、八戸の過去から照射される眩しいほどの「文化」なんですね。かつて未来からやってくると思われた「文化」も、今となっては現存する八戸の町を作り上げた先輩方の思い出として未来とは逆の過去から匂い立ってきているように、感じられるんです。・・・時代の流れとは、言葉の意味を真逆にすら変えてしまう。今八戸に住む人も、これから八戸に行く人も、先人が残し今もその風情を残す鍛冶町界隈の港町文化が顕われた町並みを、味わってほしいと思います。

'10 02月16日 (火) 22時14分 : 蕪島と太陽

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お写真のみで更新シリーズも最終盤、八戸市の誇るウミネコの島・蕪島から眺める八戸港と太陽です。町中で見上げた時には一枚ベールをかぶっていたように見える太陽も、海辺に近づくにつれて間近に見え、港に立って見上げると強烈なほどに輝いていたりします。なぜかは分からないんですが、太陽は陸と海の海岸線で最も強く輝くような気がします。

海と空は惜しげなく青く、太陽は目がくらむほど白く、僕らの影はどこまでも深い。このコントラストは、八戸に住んだことのある人にしか分からないんじゃないかと思うほど圧倒的なものです。八戸を知らない人にも、いつか遭遇してほしい体験です。

'10 02月16日 (火) 00時01分 : 祈ること、祈らないこと

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出張中につきお写真だけで更新シリーズも終盤戦、今週いっぱいとなりました。今日の写真は数年前のお正月、長者山新羅神社に参拝に訪れた親子の写真です。

この親子、実は参拝の様子を観察していたんですが(観察されたほうがたまったもんじゃないですよね、申し訳ないと思います)、お子さんは神様に対して軽くお祈りしただけだった一方、お母さんはお子さんに早く去ることを促されていても気にせずに神様に深くお祈りを捧げておられました。

子供が「祈らないこと」も、お母さんが「祈ること」も、両方きっと正しいのだろうな、と思いました。子供は祈らないことでお母さんと一緒により楽しい何かを見つけよう、動き出そうとしたし、お母さんは祈ることで子供に少しでも多くのシアワセを呼び寄せようと本気で神様に語りかけていたんです。要は、祈るか祈らないかの問題じゃなくて、何を願いとして心の中に秘めながら参拝しようとするかという態度の問題なのですよね、きっと。言ってしまえば、神様がいるいないの問題でもなく、とりもなおさず俺の問題なのだ、と思ったのです。

'10 02月14日 (日) 21時04分 : 波を見る船

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多忙中により、お写真だけでの更新が続いております。今日の写真は、八戸の漁港の中でも圧倒的な情緒があると個人的に大プッシュしたい小舟渡の浜でじっと出港を待っている漁師船です。崖と山に囲まれて昼間でも薄暗い小舟渡で、遠く明るいながらも荒れている水平線を物言わず眺めている小さな船は、自然に対してあまりに小さい人間の力を象徴した存在のように、肩を縮めているように見えました。

しかし、そんな小さな船もいざ出港となれば大きく頼もしく勇ましく見えるもの。漁師と船は一心同体、一緒に海に出る時にはじめて真価が出るものなのでしょう。漁師町・八戸は、そんな風に海と戦い続ける漁師と船の絆が見える場所があちこちにあって、実に切なくて、魅力なのです。

'10 02月13日 (土) 15時25分 : 45号線

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多忙中につきお写真だけで更新シリーズ、本日は八戸を貫く45号線の光景です。八戸の人なら、必ず一度は通ったことがあるんじゃないかという「新井田大橋」ですね。なだからかな丘陵を新井田川がつっきっていて、新井田川から類家側に下りながら橋を渡ると、諏訪・類家・青葉から小中野・柏崎のほうまで広がる八戸の平野部が見渡せる、お手軽な絶景ポイントでもあります。

ところで、僕が愛用している写真現像ソフト「Aperture」がアップデートしまして、今インストール中(正確には、新しいソフト用に写真データを改変する処理中)なのですが、2時間半で30%ほどしか終了しません。今日中には終わらないっぽいですね・・・

来週も出張なので、更新用の写真を準備しようと思ってたんですが、それも明日になりそうです。ここのところずっと写真ばかりの更新で申し訳ないですが、それもおそらく再来週前半までのご辛抱。もうちょっとだけお待ちいただければと思います。

'10 02月11日 (木) 19時39分 : ふりそそぐ光の束

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まあ、見てみてくださいな。イギリスの結婚式の風景です。

若者という世代は、働かなきゃいけないし結婚しなきゃいけないし子育てしなきゃいけないし、色んな欲求を抑えなきゃいけないし社会性を持たなきゃいけないし世代の層の真ん中を取り持たなきゃいけないし。それでも、こんな風に結婚というイベントを体いっぱいで楽しんだり楽しませたりしようとしているんですよねぇ。

こういうところをつぶさに褒めてお互い笑えるような世の中にしたいから、僕はそうしようと思います。

'10 02月11日 (木) 16時53分 : 闇に浮かぶ

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お写真だけで更新シリーズでございます、今日の写真は港町八戸の風情には欠かせない横丁から、暗闇にポッと浮かぶ提灯です。この提灯というものって、日本全国どこに行ってもありますよね。暗闇の中で、内側から色鮮やかに光っては酒飲みたちを誘惑し続けているもの。

今は照明器具としての実益的な役割は無いですから、提灯をぶら下げるのは伝統的・歴史的な背景からであって、別にあっても無くても良いという考え方もあるかもしれないのですが、個人的には照明器具としての提灯のデザインの中に酒飲みの心をくすぐる・・・ひいては人の不安感やストレスや欲求やらをくすぐる何かコンセプト的なものが隠されているんじゃないかなぁって思ったりするんです。

この写真の光景も、どこか呪術っぽさのようなものがあったんだよなあ。あれ、なんだろうなあ。

'10 02月09日 (火) 18時02分 : 向こうに海が見える小径

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出張中につきお写真のみで更新でございます。毎度毎度ごめんなさい、来週までのご辛抱。

今日の写真は、蕪島から小船戸に向かう途中の細い脇道で、木々のトンネルの向こうに水平線がのぞいているささやかな光景です。昼下がりの光と木々の肌の向こうに、真っ青な海が見える。なんというか、その道に歩を進めるのを躊躇してしまうような、不思議な神々しさのようなものを感じた一枚です。

'10 02月08日 (月) 22時00分 : 思い出せ、寒くない冬

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先週に引き続き、出張中につきお写真で更新シリーズでございます・・・ちなみに来週も出張でございます。3週連続で家にほとんどいないという状況でございまして、僕の代わりに皆さんには家にいてほしい、のんびり過ごしてほしいと願ってやみません。本当に。

とはいえ、出張先でも楽しくやってるんですけどね。今日の写真の撮影場所はきっと誰にも分からないと思うんですが・・・港町八戸が擁する水産科学館「マリエント」さんの近くの薮でございます。分かりっこないですよね、薮ですもんね、ごめんなさい。・・・さて、マリエントさんは海沿いの大きな段差を覆うように建っていて、建物の脇を急勾配の階段が取り囲んでいます。そんな階段から冬の太陽を見上げると、まるで子供の頃に空き地を駆け回っていた頃のように薮の向こうに太陽がまぶしく光ってるんです。

子供の頃って、本当に冬だって寒くなかったっけな。

そんなことを思い出しながら、普段住んでいる町よりも数段寒い町並の中をいそいそと仕事に向かった今日でした。

'10 02月08日 (月) 00時12分 : 京都駅のかわいい女性駅員さんの話

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先日、出張で訪れた京都駅の改札で見た女性駅員さんが、かわいかった。

その改札は特に混んでいなくて、僕が荷物を抱えて改札を通ろうとした時も、客は僕しかいなかった。女性駅員は改札横の詰所みたいなところでパソコンを前に座っていて、白髪の男性駅員と肩ごしに何かを話していた。僕がキップを改札に入れた時、男性駅員から何かを言われた女性駅員は振り返って、男性駅員に向かって「あっかんべー」をした。

かわいかった。どこかしら「なるほど」と思わせるかわいさがあった。見た目が清潔感のある真面目な感じだし、男性駅員と話しながらもパソコンに向かってパタパタと何かを打ち込んでいる様子は職務態度として問題なかった。そんな女性が、クルリと振り向いてあっかんべーをするというのは、なんだろうな、とてもグッと来たのだった。なんでここまでグッと来たのだろう? と考えてみたら、清潔感のお茶目さのギャップなんてのもあるけれど、個人的には「白髪の男性職員と若い女性職員が、仕事をしっかりしつつも適度に打ち解けて仲良く過ごしていること」が響いていた事に気づいた。僕はその女性職員を恋愛対象として見たのではなくて、仕事場の女性と良い関係を構築できている男性職員に感情移入した上で、そんな風にあっかんべーしてくれる間柄の同僚を持てたことをうれしく思っていたのだ僕は、と感じた。

僕は二人の駅員の談笑を聞きながら重い荷物を背負い直し、少し背筋を伸ばして地下鉄のホームへ向かったのでした。疲れなんて一瞬で吹き飛んだ。

今日の写真

今日の写真は、先日掲載した凧揚げされているお母さんの横で楽しそうにはしゃいでいた女の子です。とっても可愛らしい笑顔でした。そんな笑顔のおかげで、びゅうと冷たい風が吹き付ける海辺なのに、寒さなんてどこかに行ってしまった事を思い出します。

「外見は中身の一番外側」という名言があるけれど、かわいかったりキレイだったりするだけで沸くエネルギーもあるから、僕も気をつけないとなあ。カッコよくは無いけれど、その他のところで気をつけようっと。いつか若い女性写真と(上の記事のような意味で)仲良くできるおじさんになりたいし。

'10 02月07日 (日) 11時23分 : 俺のニオイ、略して「俺臭(おれしゅう)」

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自分の書いたものとか、撮った写真とか、選んだ服とか、話すことにつきまとう、俺のニオイ。俺臭(おれしゅう)と言ってよい。この俺臭が、どうにもダメだったんだよなあ、若い頃って。それがダメだと何を作っても自信を持てないし、他人に対する評価が上がるのは良いけど自分に対する評価がダダ下がりしてしまう。でもこれって、今から考えると単純に客観的な視点を持てなかっただけなんだよなぁ。自分以外の人がみんな人間的に素晴らしいなんて事は100%あり得ないし(だってそうだったら、誰かから見た僕は素晴らしいことになるんだし、そもそも「完璧にスゴイ人」なんていないような気がするし)、みんな多かれ少なかれ「俺ってなんかヤだな、ダメだな」みたいなコンプレックスを抱えていることは明白だろうと思う。おしなべて言えば、人はみんな長所と短所がイビツな形でくっついていると思っている。

実は今でもこのサイトの文章や写真に対してけっこうな「俺臭」を感じているものの、まあそういうニオイが気にならない人だっているだろうし、と高をくくる形で運営しているのが本当のところ。だからこそ、褒められると本気でうれしいし、けなされても「この人には合わなかったんだな」と受け入れられるように、すこしずつ、なってきた。

似たようなニオイに「八戸臭(八戸の事を不公平に悪く感じてしまっている状態)」などもあるので、精一杯注意したいところである。

今日の写真

ちょっとニオイがキツい今日の日記に対応して、さわやかな光景をひとつ。河口から八戸セメントさんを横目に上流に遡った新井田地区から眺める新井田川の穏やかな川べりです。寒い日が続きますが、こんな景色を時々見て「ああ、世界も案外良いところもあるよな」と感じたりしながら公平さを頭の中でバランスしていかないと、時々うっかり腹を立てたり変な失敗をしてしまったりする僕です。

仕事が忙しくて何かやらかしそうな雰囲気を感じたので、先回って反省する日記でした。

'10 02月06日 (土) 13時34分 : ボーリングの夜

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出張中につきお写真だけで更新シリーズです。実は既に出張から戻っているんですが、やることビッチリなのでとりいそぎ新しい記事を出しておこうということで・・・すいません。

冬の薄闇にまぎれて、ボーリングのピンがじっくりと冬を睨んでいるのは、中心街から少し南のゆりの木通り。繁華街の華やかさと北国の冬の厳しさが混じりあって、どことなく寂しくて切ない雰囲気を作っているのが、八戸の趣深さではないかなぁ。

さらにいえば、八戸のみならず、20〜30万人ぐらいの地方都市って、こんな風に「都会」と「田舎」のバランスが調度良い町が多いように、個人的な経験では思います。おいしいものもあるし、泊まったり休んだりも簡単だし、移動手段も何とかなるし、田舎らしさは色濃く残っているし。何事もバランスって大事だよなぁ・・・

'10 02月05日 (金) 08時21分 : くらい波

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出張中につきお写真のみで更新シリーズ第5弾は、寄せる波です。波です。これだけです、すいません(マジで忙しくなってきたッス、うへぇー)

'10 02月05日 (金) 00時00分 : 黒いススキ

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出張中につき写真で更新シリーズ第4弾は、八戸の馬淵川沿いにしか生息していない希少品種「黒ススキ」を採り上げてみます。当然のようにコレはウソで、川沿いの写真を白黒加工しただけなんですけども、予想以上にとリアルでザラリとした手触りになったので個人的には好きな写真です。

ところで、八戸の怖い話を個人的に聞いて回っているんですが、地名や人物名や団体名がリアルすぎて部分的にしか公表できないのがつらいところなんです。例えば「八戸の怖い話:逆さ柱」なんかは、会社名・登場人物名も把握できてますし、その話が本当であることを証明する建物なんかも既に写真に納めているんですが、公開すると団体さんや地域の人に迷惑をかけるかもしれないという点が心配なので、やっぱり出せないんですよねぇ・・・。

とはいえ、こんな写真に似合うとびっきりの怖い話、ご存知の方は教えていただければうれしいです。話に似合う写真を付けて記事にさせていただければ、と思いますので。

怖い話というと一般的には夏のイメージですけど、北国は冬だって案外怖いですよね。

'10 02月04日 (木) 19時28分 : 雪の次の日の散歩

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出張中につきお写真更新シリーズ第3弾は、雪が降ったあとの散歩です。

撮影ポイントは新井田川、八戸セメントさんよりも少し上流の新井田地区です。八戸セメントさんまで辺りは「海のそばの川」という感じですが、この辺りから少しずつ「平野を流れる川」という雰囲気が出てきて、田向から是川にかけて一気に「山の川」にかわっていきます。海と山がせめぎあう八戸にピッタリの風情を持つ川と言えますね。

そんな川沿いを、めいめいに散歩する人たち。雪を踏んでシャキシャキと歩を進める人々をみていると、案外寒さなんて忘れてしまうものだから、不思議なものです。

'10 02月03日 (水) 21時32分 : 夜を進む

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出張中につき写真で更新シリーズ第2弾・夜の繁華街を抜けていく八戸市営バスさんです。

・・・かっこいい、シブイ(ゴクリ)

しかも、全国的な動きもあって最近のバスの運転手さんはマイク付きで、田舎の言葉で案内してくれるんですよね。これが、イイんだなあ。分かるかなぁ、分かんねえんだろうなあ・・・いや、分かってください、お願いします!

'10 02月03日 (水) 00時15分 : たこあげ

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出張中はそれこそ仕事にほぼすべてのエネルギーを使うので、お写真で楽しんでいただこうかと。更新頻度も上げますので、何卒ご容赦くださいませ。

今回の写真は、蕪島の横の砂浜で凧揚げに興じる若いお母さんです。一年じゅう海風が吹く八戸ほど、凧揚げにうってつけの町は無いです。写真の場面のあと、お母さんは4つぐらいの小さな娘さんに凧を手渡したんですが、その娘さん、マリエント(近くにある水産科学館)まで飛んでいってしまいました。うそです。すいません。

'10 02月02日 (火) 00時39分 : 毎日寿命を1日伸ばせば不老不死。

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びっくりしたら「1年寿命が縮んだわー」なんて言う。驚いただけで寿命が縮むのなら、風邪をひいたり転んだりしたら、きっともっと縮むだろうなぁ。例えば風邪で1週間寿命が縮むとして、毎年風邪をひくと・・・1年間は72週間ちょっとだから、72年ほど生きると寿命が1年縮むことになる。「毎年風邪をひくと、おしなべて1年寿命が縮む」と言葉にすると、予想以上にリアルに聞こえてくるから面白い。

一方で、驚くぐらいで寿命が縮むのなら、気持ち良いことをしたら寿命が伸びてもおかしくない。例えば週末に一泊二日のんびりと温泉宿で過ごしたら、1週間ぐらい寿命が伸びても良い気がする。計算すると・・・「毎月1回温泉に泊まりに行く生活を5年間続けた場合、約1年寿命が延びる」ことになる。例えば75年間毎月温泉生活を続ければ、寿命に15年のボーナスが加えられ、90歳まで生きられる。適当に置いた数字だけれど、これも案外リアルな数字になったように感じる。

上の計算では「生活習慣を人生何十年というスパンで見てみると、寿命に大きな変化が出そうだ」という見地で考えてみたけれど、別の考え方をすると、「今日1日過ごす間に行った様々な事や出来事すべてについて寿命のプラス・マイナスを積算して、結果が『寿命プラスマイナス0』の場合は、天寿を全うできる」と言うこともできる。さらには、積算結果が『寿命プラス1日以上』なら、その人は死なないはずである。

例えば、僕の今日の1日はこんな感じだ。

  • 朝:起床。つつがなく出社。寿命マイナス10分。
  • 午前:つつがなく仕事。コーヒーを飲む。寿命マイナス5分。
  • 昼休み:友人と下らない話をして大いに笑う。寿命プラス1時間。
  • 午後:つつがなく仕事。ミーティング1件。寿命マイナス5分。
  • 夕方:定時で会社から出る。寒いけど気分は良い。寿命プラス10分。
  • 夜:大好物の生ハムと、読みたかった本を2冊ほど買い上機嫌。寿命プラス20分。
  • 深夜:趣味に時間をたっぷり使えて気分が良い。寿命プラス20分。
  • これから:健やかに寝る予定。寿命プラス30分。

合計すると、今日ぐらい上出来な日だと、平日で仕事があったにも関わらず寿命はプラス2時間になる。しかし、今日という1日=24時間を消費してその分寿命は減っているから、24−2=22時間だけ、僕は死に近づいた訳だ。・・・なんて具合に色々下らないこと考えて仮想的な寿命を伸ばしたり縮めたりしてみたところで、僕自身のカラダは確実に死に近づいているという事実だけは揺るがない。僕が日々感じる腹痛や頭痛やチクリとした胸の痛みのいずれかが、致命傷になる日が来る。不思議なものだ。

なんで急にこんな話を書いたかというと、(僕の寿命が1時間伸びた)昼休みに、「死ぬならどんな場所が良い? 老後に死に場所として選ぶなら、どこ?」という話になったからである。

僕は少しだけ考えてから、「海のそばがいい」と答えた。

'10 02月01日 (月) 05時10分 : iPadという鏡

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iPadが発表されました。同じメーカーに勤める者として、この革新的な新製品の発表を心から祝福したいと思います。

しかし、iPadに対する様々な評価の中で、Flash非対応・SDカードスロット無し・マルチタスク無し・Mac OS XではなくiPhoneOS・・・といった理由による批判的な意見が大きいように思います。そしてそれらは、結局はフルスペックのPCの置き換えにならないことを問題視しているとまとめる事ができるように思います。

  1. 既存のPCでできることをフォローしたタブレットPCの決定版を期待していた。
  2. しかし、出てきたのは「大きなiPod Touch」だった。
  3. これは僕の求めていたものではない。

そんな風なロジックが、まず第一印象として批判側に回った人たちの後ろにあるように感じます。さらに言えば、こんな感情があるのかもしれないとすら思うんです。

「俺たちからフル機能のPCを奪うなよ」

主流でフルスペックのOSがあり、キーボード・マウスといったUIがあり、様々な端子を使って機能を拡張できる。そんな機械じゃなきゃ、自分の生産性や望むべきレスポンスを期待できない・・・と考えているからこそ、iPadを受け入れられないという意見を表明するに至っていると言ってよいでしょう。これは言わば恐怖感に似た感情とも解釈できます。俺からPCを奪うんじゃねえよ、と。

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しかし、iPadの実際・・・というか、Appleが目論んでいる事は、PCの置き換えではないことは明白ではないかと思います。iPhoneとPCの間の「第三の製品」として生まれたiPadは、スティーブ・ジョブスがプレゼンしたように、以下の機能が本当のウリなのです。

  1. インターネット・メール・写真・ゲームといったPCにおける基本的でメジャーな機能を、
  2. ソファーに座ったり寝そべったまま、
  3. タッチするだけで誰もが前提知識なく楽しめる。

つまり、既存のPCに比べると機能的には限定されているけれど、利用シーンと利用ユーザは広がっているという構造になっているわけですね。言い換えれば、PCの知識を活かしつつ、キーボードやマウスによるキリキリにまで研ぎ澄まされた入力デバイスによって高い生産性を得ていた既存のPCユーザの既得権益が失われ、その分の利益がPCの前に座りたがらない人やPCを知らない人に再配分されているわけです。ビューワと言っても良いほどに、生産性に直結するレガシーな(昔からの)デバイスは削ぎ落とされた代わりに、そもそも生産しようという考えすらないユーザには非常に親しみやすくなっていますね。

iPadなら、リビングでテレビを見ながら簡単にネットを見たり、検索結果を家族に見せたりできるでしょう。UIは指のみだし、何しろ見た目は薄いモニターなのだから、家族の誰も怖がらないでしょう。こうやって考えてみると、iPadという製品が提案する、既存のPCユーザには恐ろしいほどの考え方に突き当たります。PCが年齢・性別を越えて広く普及しない原因は、効率性や生産性に偏りすぎていたからであり、その偏りを解消するには既存のPCユーザの求める効率性や生産性を切り落とさなければならない、と。

Appleが考え続けたタブレットPCの意義は、それがとうとうPCではなくなる場所でのみ価値があるものだったからこそ、iPadはPCではないのです。

  • PC:Mac OS X + キーボード + マウス + 拡張性 = 高い効率性・生産性を少数のユーザが楽しむ
  • iPad:iPhoneOS + タッチスクリーン + ポータビリティ = 限定された効率性・生産性のビューワを多数のユーザが楽しむ

タッチパッドのキーボードの入力スピードは物理的なキーボードには適わないし、指でIllustratorやPhotoshopを精密に操作するのは難しいでしょう。しかし、iPadを膝に載せたお母さんがCMを見て検索キーワードを入力するには十分でしょうし、子どもたちは大きなキャンパスに指でのびのびと絵を描くでしょう。

iPadという鏡は、iPadそのものを望む者には果実を映し、iPadではないものを望む者には悪魔を映すようです。それほどの強いコンセプトが、PCを万能の利器ではない場所に相対化してしまう力が、iPadには宿っているように思えます。

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じゃあ、僕は買うのか?

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僕はヘビーなPCユーザだし、家にソファも無いし、ノートPCもあるので・・・これだけiPadのコンセプトを説明しておきながら、買いません。キッパリ。きっと1年以内に「カメラ搭載」「黒い縁が狭くなる」「電池寿命が伸びる」といった分かりやすいハードウェアのアップデートが起こるだろうし、eBooksの日本展開や新しいアプリの登場といったソフト・サービス面のアップデートもあるでしょう。だから、買いません。待って損はない、はず。

・・・いやいやいや、買いませんってば(笑)。現物を見てガマンできるかが勝負、Apple製品はコレがマジで鬼門。・・・でもなぁ、これって人に写真を見せるには素晴らしいデバイスだよなぁ。それに、ネットを使ってない実家の親にプレゼントするにもピッタリ・・・ハッ!(危ないところだった)

ちなみに、Appleが発表会で見せたiPadの背景は、遠くに陸地を望む朝焼けの海でした。新しい大陸には、いったい何が待っているのか。iPadは、まっさらな可能性の海に船出したばかりです。

'10 01月31日 (日) 12時00分 : 高橋真梨子「ごめんね」の腹が立つポイントを解説

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先日「高橋真梨子の『ごめんね...」という歌の歌詞が腹立たしい」ということを日記に書いたら、どういうこと? というリアクションを受けたので、あらためて説明しようと思います。

まず1番のAメロを見ていきましょう。

好きだったの それなのに 貴方を傷つけた
ごめんねの言葉 涙で 云えないけど 少しここに居て

悪ふざけで 他の人 身を任せた夜に
一晩中 待ち続けた 貴方のすがた 目に浮かぶ

要はこの主人公の女性は浮気したわけで、それを後悔しています・・・という感情を歌詞に結晶させてるんですけど、上の話の順序を並び替えると見えてくるものがあります。

  • 貴方を好きだったのに、傷つけた。
  • 浮気して体の関係を持った。悪ふざけだった。
  • 一晩中待っている貴方に申し訳が無い。
  • 「ごめんね」の言葉が、涙で出てこないけれど少しここに居てほしい。

強調箇所が、腹立たしいところである。悪ふざけとは何事か! 本当に傷つけたことを深く反省しているのか。しかも、泣いてることを言い訳にして謝罪の言葉も口にせず、挙句の果てには「少しここに居て」と要求までするのか。反省もなく、言葉にも出さず、あまつさえ男に依存さえする女の態度には、論理的に考えれば一片の同情の余地も無いはずだ。それが、サビになるとさらに強烈になる。

消えない過ちの 言い訳する前に
貴方に もっと 尽くせたはずね
連れて行って 別離(わかれ)のない国へ

言い訳の前にできることがあったはずだ、と考える態度は同情の余地があるが、その後がいただけない。「別れのない国へ連れていけ」とは何事か! だいたいそんな国は無いし、やっぱり最後の最後に要求してくるのか! お前は本当に反省しているのか、それとも頭がおかしくなったのかと訝ってしまうのも仕方がないと言うものである。

その後の歌詞も、結局この主人公の女性は以下のような要求をする。

  • 『せめて今夜 眠るまで 私を抱きしめて
  • 『いつも我がままを 許してくれた場所まで 戻りたい』

浮気しといて抱きしめてだの、まだ我がままをさせてだの、この女性はどうかしている。いくら男がいい加減でも、浮気をされた女性を葛藤無しに抱きしめられるほど能天気ではないし、女性が自らを卑下した言い方かもしれないという部分を勘案しても「我がままを許して欲しい」と、今言うか、と。そして究極は、以下の一文であろう。

何処にあるの 悲しまない国

浮気するような良い年になっても「悲しみのない国はどこ?」と言う未成熟さが、彼女をして浮気に走らせるのである。もはやこの女性の考えは荒唐無稽であると断じられても相応だ。

結論としては、この歌の主人公の女性は身勝手に浮気をしておきながら、反省も謝罪もせずにさらなる要求を繰り返すという反社会性の塊であると言わざるを得ない。「もう浮気はしません」と言わずに「別れのない国へ連れていって欲しい」と現実逃避と責任転嫁を繰り返す女性は、もはや別れた方が正解である。この女性を断じて許してはならないのだ。

しかし、この曲がヒットしていることを、男性は忘れてはならない。女性は結束し、一切の譲歩せず、こういった反社会的恋愛価値観を男性に突きつける。そしてあまつさえ、「女心が分からないのね」などという無碍も無い一言で、男性を言いくるめようとするし、こういった非論理的で身勝手な主張に屈してしまう男性を「良いオ・ト・コ」なんて表現したりするのである。で、僕なんかはそんな女性に騙されてウッカリしちゃったりするのである。

そろそろ賢い読者の方ならお気づきであろうが、この記事は全体的に冗談であるので、本気で受け止めないでいただきたいことを最後に付け加えておく。

今日の写真

ちょっと時期はずれなんですが、夫婦で飛んでいるウミネコの写真です。撮影は6月、ウミネコは子育ての時期で、日本で唯一人が足を踏み入れられるウミネコ繁殖地である蕪島は圧倒的なほどの命と生の感覚に埋め尽くされます。ウミネコは夫婦で子育てするんですが、浮気なんてするんですかねぇ? なんて思ったので採用しました。ただ、上の写真で2匹ならんで飛んでるウミネコは両方何かを叫んでいて、まるで口汚く互いを罵っているようにも見えますね。人間もウミネコも一緒だなあ、と思うと滑稽です。今日の日記もまさしく「歌の歌詞に本気になっている俺の滑稽さ」みたいな部分を感じていただければと思います、重ね重ね、本気ではないのでご注意を(笑)

ただし、企画でご飯を食べている僕にすると、この歌詞は女性の考え方を探る上で非常に重要です。少なくとも男性である僕は、浮気を謝り反省しながら「別れのない国に、行きてぇなぁ・・・」なんて事、思い浮かびませんもの。

だからといって、僕は主人公の女性のような考え方を一面的に叩こうとは思わないんです。僕だって非論理的な考え方が心の底から突き上げてくることは日常生活の中でも数多くあります。そもそも僕らは論理的になんて動いていないことは、最近の行動経済学や文化人類学の成果が指し示しています。僕らって、この歌と同じぐらい非論理的なのだ、というところにスタートラインを引いた方が建設的であるとすら言えると考えているんです。

さらに言えば、歌詞のような場面で生じるどうしようもない気持ちって、僕にも上手く言葉に出来ないだろうし、きっと女性にも上手く表現できないんじゃないかと思うんです。歌詞の通り、涙ばかりが出て言葉になんて出来ない状況に陥るのが普通じゃないかな、と。そしてそんなグチャグチャになった感情をそのまま言葉に置き換えられたことが、この曲のヒットの一因であり、高橋真梨子の面目躍如ではないかと思ったりもするのです。

そのあたりをすべてひっくるめて理解しているからこそ、歌詞中で謝らなかったにも関わらず、曲のタイトルが「ごめんね...」なのではないかな、と。歌詞と曲名の矛盾こそが、僕らの心がもつ非論理性を如実に表しているように思うのです。

謝られると、男は弱いですしね。

'10 01月30日 (土) 11時35分 : 「定食」を「伝説」に置き換える

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「定食」を「伝説」に置き換えると面白いかも? って、気づきまして。

  • レバニラ伝説
  • 野菜炒め伝説
  • おさしみ伝説
  • かつとじ伝説
  • 日替わり伝説

伝説なのにショボイ感じが肩透かしでクスッと来る。で、世の中にはどんな定食メニューがあるんだろう? と思ってGoogle先生に聞いてみたら、ちょっと予想外の定食に出くわした。

  • マカロニ定食

なんだろうか。マカロニがおかずなのだろうか、これで定食が成り立つのだろうか・・・? これぞ本物のマカロニ伝説である。

今日の写真

今日の写真は八戸市の中心街から南に少しいった「ゆりの木通り」に面する三ツ星食堂さんと、おとなりのオトナなお店の看板です。八戸は田舎の古い港町だけあって、懐かしさを残す食堂さんがたくさんあって、中でもこの三ツ星食堂さんの看板は個人的にかなりグッと来るんです。上の話では定食を茶化しちゃってますが、安価であったかいご飯と味噌汁とおかずを一般市民に提供する食堂という仕事にはどこかしら誇り高さのようなものがあるように思えて、だからこそ昔から変わらず威風堂々と看板を構える食堂を見るたびに、僕も背筋が伸びるように感じるのです。

'10 01月28日 (木) 00時01分 : 「さらかもねどげ」

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子供の頃、例えば兄弟といつまでもチャンネル争いをしていたりするのに業を煮やした祖父は、容赦ない教育的指導を僕に施したあと、「さらかもねどげ」と必ず言った。激昂した祖父の前で祖母は僕たちをかばおうとするけれど、祖父に押しのけられる。僕はボコボコと殴られ、靴をはく暇もなく真冬の外に追い出される。祖父をなだめる祖母の声を背中に、泣き叫ぶ僕も構わず祖父は容赦なく扉を閉める。閉めた直後、祖父は「さらかもねどげ」と叫ぶのだった。

・・・何のことだか分からなかった。「さらかもねどげ」の意味が、分からなかったのだ。でもそのうち、徐々に推測がついてきた。それは、こんな感じだ。

  1. まず、その言葉は僕をかばう祖母に対して言われていることが推測された。僕を外に締め出した後に叫ぶから。
  2. ある日、「『さら』とは『まっさら』のさらで、『まったく、ちっとも』という意味合いでは? と思いついた。
  3. となると、残りは『かもねどげ』。これなら何とか推測がつく。『かもねどげ』→『かまわねどげ』→『構わないでおけ』
  4. つまり「さらかもねどけ=まったく構うな」という意味ではないか。

直接確認する前に祖父は死んでしまったけど、どうやらこれで合っているらしい。

ここでポイントは、同じ国・同じ地域に住んで、生まれた頃から八戸の訛りを習得しているにも関わらず、分からない言葉があるということ。改めて思い返すと、日常生活の中で「おじいさんは何を言っているんだろう?」という疑問にさらされることがたくさんあった。例えば、こんな言葉。

  • 「きっち」 → 浴槽のこと。「きっちいてこ(「きっち」に行ってこい)」=「お風呂に入りなさい」という意味だが、小さい頃の僕は「キッチンに行け」という意味かと勘違いして、洗い場の前で祖父の次の一言を待った。
  • 「じゃんぼ」 →髪の毛のこと。「じゃんぼかてこ(「じゃんぼ」を刈ってこい)」=「髪の毛を切ってきなさい」という意味だが、小さい頃の僕は祖母に困った視線を向けて、通訳をお願いした。ちなみに、八戸で「じゃんぼ」という人はあまり多くないようで、津軽弁でよく用いられる。

そんな風に祖父と僕は時々まったく訳の分からない会話をしながら暮らしていたわけで、今になって考えるとこんなに面白い生活環境は無いよなぁ、と思う。普段の生活自体が異文化との交流になっているのだから、スゴイものだ。でも、孫と上手く話せない祖父のことを考えると、切ない。僕に言葉が通じていない様子を見ながらも、そんな僕を許し続けた祖父を想像すると、祖父に叩かれ外に出された思い出すらあったかくなる。

今日の写真

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実は今日の写真は八戸ではありません。八戸までの帰省の足・新幹線「はやて」の車窓から見下ろす盛岡駅です。寒風吹きすさぶ盛岡駅を温かい車内から見下ろしていると、八戸に近づけば近づくほどに時間まで巻き戻ったかのように、八戸に住んでいた小さな頃の場面がリアルに立ち浮かんでくるんですね。外に出されたあの日も、この写真のような吹雪でした。八戸で生まれ育った僕からすれば、子供の頃の思い出はすべて、八戸の思い出でもあるのです。

ちなみに、普段このdiaryで使っている写真は95%以上八戸の写真ですし、当サイトのメインコンテンツ・photoのページは純度100%・生粋の八戸写真ですので、そちらもどうぞお楽しみくださいませー!(右のボタンから行けます)

'10 01月26日 (火) 07時47分 : コインランドリー百物語

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コインランドリーで回る洗濯物を眺めたり眺めなかったり。普段は暑くて避けてしまう陽だまりが存外に気持ちよくて、世界中が穏やかな午後をゆっくりと過ごしているような錯覚に身をまかせる。最近はすっかりコインランドリーには行ってないけれど、ドラムの中で追いかけあっている洗濯物を小難しい顔をして眺めている学生の頃の僕のような奴が、世界の何処かにいるのかなあ。

・・・そんな手持ち無沙汰だけど心地よくもあるゆったりとした時間に考えそうなことをいくつかまとめてみました。要は僕が最近ボンヤリしている間に考えていたことの棚卸しでございます、とりあえず10個ほど。

  1. 90年代は英語で「ナインティーズ」。では2000年代=ゼロ年代は英語で何ていうのだろう? ということを、ついこの間調べたと思ったんだけどなぁ。もうゼロ年代、終わっちゃったなぁ。(ちなみにゼロ年代は「ノーティーズ」)
  2. バイトでやってた家庭教師先の中学生男子に「クラブには、ブラックライトっていう不思議な青い光があるよ」と不用意に話したばっかりに、次の週に行ったらお小遣いをはたいてブラックライトを買っていて、何とも切ない気持ちになったなぁ。
  3. 「スーパーはぼき」って、まだ売ってるのかな?
  4. 「女なんてホニャララだよな」という言い方をする人が馬鹿っぽく思えてしまうのは、世界で30億人もいる男の性格なんて一言で言い表せないだろう? という疑問に根っこがあるのではないか。陽気な国も陰気な国もあるだろうしさ。
  5. お年寄りにも優しいツイッター「老いったー」ってどうかな。きっと、同じことを日本だけでも数十人は思いついているだろうな。
  6. 「ミルキーはママの味」という言葉を「ミルキーがママの味」と言い換えると、切ない。母親と生き別れる前の唯一の思い出が、母親からもらったミルキーだったという哀れな子供の心情のようで。
  7. 高橋真梨子の「ごめんね・・・」という歌の歌詞の女性は、何とワガママな事だろう! 勝手に浮気しといて「少しここにいて」だの「抱きしめて」だの、挙句には「連れていって 別離(わかれ)のない国へ」等と意味不明なことを・・・だんだん腹が立ってきた!!
  8. 生まれてから今までの間に、何人の先生から何時間の指導を受けたんだろう。とてもとても長い時間をたくさんの人からもらうことで、勉強やら何やらもできたんだなぁ。
  9. 昔ラジオで聞いた替え歌の投稿で「マトリョーシカを開けたら2個目で終わり」という歌詞があったんだけど、未だに思い出し笑いしちゃうんだよなぁ。2個目で終わりってなぁ・・・ちなみに元歌は「今日の日はさようなら」。
  10. 干した布団のあの太陽のような匂いは、実はダニの死骸の匂いだそうだ。なるほど、ダニは太陽の匂いがするのか。

こんな事ばっかり考えながら生きてる奴も、いるのです。文字にするとショボさが強調されて、我ながら良い。友達になれそうだ。

'10 01月21日 (木) 07時49分 : お正月、終わりーっ!

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いや、まあ既にお正月気分は終わってたっていう方も多いでしょうけれど、個人的にやっとお正月が終わりました。気分が抜けた、と言いますか。これまでは何となく、もう少しだけのんびりできないかなぁ・・・なんて甘えたことを考えてたんですが、以下の3つの記事に立て続けに出会ったあとに、こりゃ気を引き締めて仕事やらブログやらをやらにゃいかんぜよ! と思ったのであります。それぐらい、以下3つの記事は読みとくべきことが多かった。

  1. 結局は自分の好きなことを貫き通したやつが負け」(「ハックルベリーに会いに行く」さん)
  2. [日記]密室にとじこめられてます 17:46」(「Everything You've Ever Dreamed」さん)
  3. レビュー:ドラゴンクエストIX 星空の守り人」(「Info/趣味のWebデザイン」さん)

改めて、ブログは人の心を動かせることがわかった。今までもそう思っていたけれど、ボンヤリしてて少し忘れ気味だったっぽいなぁ。

というわけで・・・お正月、終わり!

'10 01月20日 (水) 00時08分 : 若者叩き3題

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マスコミなどで声高に若者世代を叩く論調が最近強くなっていてイヤだなぁ・・・と僕は感じていて、このサイトでも何度かそういったテーマのエントリをアップしたりしましたが、いよいよネット上でもそのマスコミの論調を認識して分析したり抗ったりする動きが顕著になってきました。

というわけで、最近の「若者叩き」を示す例を3つほどご紹介。

マスコミのひどい若者叩きの一例

マスコミが若者世代にターゲットを置いて、叩く。そんな論調を如実に示すニュースとそのリアクションをまとめた「痛いニュース」さんのこちらのエントリから。まずエントリのタイトルが何とも若者の感情を逆撫でするのです。

「嫌消費」世代 経済を揺るがす「欲しがらない」若者たち...週刊ダイヤモンド

不況の原因を「若者がお金を使いたがらないこと」に集約してしまっている乱暴な論調に、ネットユーザの若者たちが一斉に反応しています。不況を押し付けられた形の若者ながら、じゃあなぜお金を使わないのか? という疑問に対しても議論が行われていて、ある書き込みではこのようにまとめられています。

925 : まな板(静岡県):2010/01/08(金) 22:44:57.71 ID:y7t5de0N
どんだけ金貯めても将来が不安でしょうがないんだよな
給料日前には財布も貯金もスッカラカンでもゲラゲラ笑ってられた世代が
何言っても説得力無いわ

951 : 鍋(福島県):2010/01/08(金) 22:47:48.23 ID:oyWV7jwg
欲しがらない訳じゃないんだがなぁ
物欲はもちろんあるが、明日がどうなるかわかんないんじゃ借金も出来ない

954 : じゃがいも(滋賀県):2010/01/08(金) 22:48:13.12 ID:YMvPC/9i
職も金もないという大前提に触れないのはなぜ?

980 : モンキーレンチ(dion軍):2010/01/08(金) 22:49:49.14 ID:otidIf3a
>>954
まぁこれ+将来不安 から来てるんだよな 完全に
それだけ

日本でも指折りで貧乏である青森県では、例えば介護福祉士の資格を取ってフルタイムで働いても手取り6桁に届かないとか、就職直後から賃金未払いが発生したりとか、サービス残業が当然のように行われていたりとか、目を覆いたくなるような事が発生しています(これらはすべて僕が実際に見聞きしたことです、僕がたまに帰って話を聞くだけで、こんな事例はゴマンと見つかります)。

お金が無いこと・仕事が無いこと・将来が不安なこと。これらの大前提を無視して「若者が金を使わないから不況になるのだ」と説くマスコミや、それに同調してしまっている高齢世代が一定数存在しているであろうことは、個人的な所感として言わせていただければ狂気の沙汰だと思います。

こんな事を言われて、若者にやる気が出るとでも思っているのだろうか?

若者の気分

では、このようにのべつ幕無しに上から叩かれている若者世代は、どんな気持ちなのか。2ちゃんねるの楽しいコピペをまとめられているサイト「コピペ新聞」さんから、こちらのエントリから引用しましょう。

394 名前: 水先案名無い人:2009/10/28(水) 11:00:41 ID:oyuLunau0
童貞率が高ければ、「消極的」
童貞率が低くければ、「乱れている」
自立すれば、「核家族化で家族力と地域社会の崩壊」
実家にいれば、「パラサイト」
金を稼げば、「守銭奴・強欲・傲慢」
稼げないと、「弱くて情けない若者達」
勉強が出来れば、「最近の子は頭でっかちで中身がない」
勉強が出来ないと、「学力低下。馬鹿だらけ」
結婚すれば、「友達夫婦。おままごと」
未婚だと、「理想が高すぎ。身の程を知れ」
大きな車を買えば、「金遣いが荒い。金銭感覚が狂っている」
軽自動車を買うと、「最近の若者は大きな車を買わない。若者らしくない」
遊んでいると、「享楽的で向上心がない」
遊ばずに大人しくしていると、「暗い。気持ち悪い。覇気が無い」
積極的に会話に参加すると、「馴れ馴れしい。言葉遣いが悪い」
聞き役に徹していると、「最近の若者はコミュニケーション能力が低い」

「テレビ見るな!ネット止めろ!ゲームは悪!新聞読め!新聞読め!新・・・」

新聞の論調を揶揄し、どう転んでも叩かれるだけである自らの立場をシニカルにまとめていますが、これが若者世代が世間から感じている時代の雰囲気なのだと思うと、胸が痛みます。僕は若者と年寄りの中間ぐらいの世代に位置していますが、若者にこんな風に感じさせたくなど決して無いし、こんなことを言う年寄りにもなりたくありません。何の足しにもならず、むしろただのストレスや悪意として若者たちの足を止め、気持ちをふさぎ込ませていると感じます。

では、若者たちを元気付け、実際に消費が上向いたり活気が出たりするには・・・前向きな社会を作っていくために具体的に必要なことって、何なのでしょう?

若者に必要なものは何か?

世の中の動きを言葉から読み解いていく事をメインコンテンツにされているブログ「スーパー小論文ハイスクール」さんは、上記で示した「嫌消費世代」のようなウンザリするような若者へのレッテル貼りに代表される若者叩きの動きを詳細にまとめておられますが、こちらのエントリから一言引用したいと思います(強調は引用者)。

いまどきの若者って、 叱咤ばかりされていて 激励を受けることがほとんどない
と、思いませんか?
 
曰く、バカになった。
曰く、覇気がない。
こんなことでどうする、世の中を甘く見るな。
今後ますます競争は激しくなるぞ。
○○くらいできなくてどうする。

いや、言ってる若者たちからすれば、
愛の忠告だと思ってるのかもしれません。
(単なるウサ晴らしの可能性も否定できませんが。)

でもねえ、若者のみなさん、
「こんなことじゃダメだダメだダメだ(あと20回繰り返し)・・・・・」と言われて
アナタ頑張ろうと思いますか?
頑張る前に潰れちまいませんか?
私ならもちません。

若者なら、なおさらでしょうに。

人は、ボコボコにされて頑張ろうとは思いません。
人は、励まされて、頑張ろうと思うんですよ。

僕は普段はサラリーマンとして、社内で企画を考えてご飯を食べています。商品を企画する際には、徹底的に対象の悪い点を洗い出しますが、でもそれだけでは何の企画にもならないんですね。物事には悪い面と同時に良い面もあるし、はたまた悪い面が切り口や視点を変えると良い面に見えてくるなんてこともザラです。だからこそ、対象が持っている特徴を価値として捉えられるかどうかが重要になってきます。ただ悪い点ばかり挙げていても、それは何の意味もない。

また、後輩と接する時もそうです。マネージメントが上手な上司は、基本的に部下を褒めます。当然それは安易な褒め方ではなく、「部下が気付いていない部下自身の長所を指摘し、伸ばす」ために褒めるんですね。人って怒られるとテンションが下がって、不安になって、どんどん内側にこもっていってしまいます。それは若者だろうがご年配の方々だろうが一緒です。人が動き、能力を発揮するためには、褒めること・励ますことが第一だと、個人的な少ない経験を元にした考察ではあるものの、僕は信じています。

人や物事の中に特徴を見つけ、それが長所として成り立ち得ることを示し、価値を見出す。そうしなければ、世の中が明るくなっていくはずがない。なのに、最近の若者叩きの論調は、一貫して特定の世代に不足があると言い、それは短所だと決め付け、悪意を振りまき、若者から価値を奪っていきます。

思えば僕は八戸についてのサイトをこうして続けていますが、このサイトも一緒です。八戸の悪い点を挙げろと言われれば、100個・200個はすぐ挙げられるでしょう。何せ企画の仕事で普段から物事の悪い面を上げ続けているのです、悪口を言えと言われたら、こんな容易な仕事はありません。しかし、それでは八戸は盛り上がらないと僕は信じます。物事を悪く言うのはカンタンだけど、褒めるのには知恵が必要です、何せ八戸と他の都市を比較するにも前提となる知識が膨大に必要だし、八戸自体の分析もしなければならないし、様々な視野に立って八戸の特徴が長所と解釈できる味方を探さなくてはいけないし、写真や文章で八戸の良さを伝えるための表現力や感性が絶対的に不可欠です(僕にそのような能力があるかどうかはさておき)。

僕は八戸を盛り上げたいからこそ、八戸を褒めたい、励ましたいと思います。同じように、若者を盛り上げたいからこそ、若者叩きという行為をすごく下品で知恵の無いものだと言い切りたいと思います。今も続く官僚叩きも同じですよね、その人の属性だけで全人格を否定するようなことを言われて、元気になる人がいるわけがないですよね。それはただのイジメでしかない行為だし、実際に「官僚ならば総じて悪」なんて乱暴が論が正しいことなんて100%無いと思うんです。

つい先日には成人式があり、センター試験がその日程を終了しました。若者たちは否応なしに自身のこれからを決める重大なイベントに日々晒されています。そんな彼らを褒めたり励ましたりしながら、様々な世代が手を取り合って、互いに互いの能力を発揮しながら、一緒に社会を作っていくべきではないか、そういう機運を作っていくことが上の世代としての本当の知恵ではないか? ・・・と、思うのです。

追伸

「美しすぎる市議会議員」でおなじみ、藤川優里さん出演のさんまのまんまムービーがあったので、ご紹介。こちらからどうぞ。この人は既に9桁以上のマーケティング・物販の効果を上げていると思うんですけど、色々なことを言う人がいますね(特に地元は厳しい)。個人的には、得意なことをやってもらえればそれで良いんじゃないかと思います、全国の何千人という市議会議員の皆さんにはない能力を持っているんですら。平成19年末の数字ですが、全国には22183人の市議会議員がいました。そんなにたくさんの議員さん達の中でも指折りに有名なんですから、その価値を有効活用できるかどうかは市政や市民の大きな課題でありチャンスでもあることは明白でしょう。

'10 01月19日 (火) 07時46分 : 寝坊した

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すっかり寝坊したので今日の更新は夕方までお待ちくださいませーっ! ごめんなさーい! いってきまーす!(ちなみに今日は高橋真梨子の「ごめんね」を怖い人達と一緒に合唱させられる悪夢を見ました。たまらないです、曲自体は好きなんですけど何でパンチパーマな人に歌唱指導されにゃならんのだ)

'10 01月18日 (月) 07時48分 : 祖母が食べない祖父の料理

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祖父が大量に魚を釣って帰ってくると、祖母は露骨にイヤな顔をする。魚のウロコを取ったり内臓を分けたりするのが面倒らしく、釣果が少ない日はニコニコして魚をさばくんだけど、あまりにも多い日は祖父の笑顔とは対照的に祖母はウンザリとしながら台所に向かう。とはいえ、祖父の釣ってきた魚はしっかりと家族の食卓で歓迎された。祖母だって食べていたし、バカにならないほどに家計の足しになった。祖父は仕事と釣りでお金と食べ物を家に持ち込み、祖母は主婦として料理をした。男女平等が声高に叫ばれる最近の世の中だと、こんな事を書く事自体が問題ありそうな雰囲気もあるけれど、とにもかくにもウチの祖父と祖母はきっとそれぞれの良心や能力や通念に従って、そんな家族を作り上げていた。

だからこそ、祖父は台所に立つことはほとんど無かった訳だけど、例外が1つだけある。「ニラの天ぷらの煮物」の時だけは、祖父は必ず台所に立った。以下がレシピ。

  1. 前の日の晩御飯に、ウチの畑でとれたニラの天ぷらが山盛りで出てくる。
  2. みんなで美味しくいただいて、残った天ぷらを次の日の朝料理する。すなわち、この料理は朝限定。
  3. 祖父が普段入らない台所に立ち、鍋に少しの水と醤油と砂糖を入れ、残り物のニラの天ぷらをトロトロになるように煮る。
  4. 味がしみたら出来上がり。

・・・という何とも貧乏臭い料理なんだけど、小さい頃の僕はこれが何よりの大好物で、祖父が台所に入るだけで気持ちがウキウキと湧き立った。ところがこの料理、1つだけ問題があった。「ニラの天ぷらの煮物」の材料であるニラの天ぷらを作った祖母がこの料理を何故か忌み嫌い、一口も食べないのだ。祖母は普段からできた人で、やさしく温かい人だった。だから、別に祖母をこんな小さな事ひとつで非難しようとはこれっぽっちも思わないけれど、その時の祖母だけはかたくなだった。

きっと祖父と祖母が若い時に何かあったのだろうな。

今となっては祖父は死んでしまったし、祖母も昔ほど動けなくなり声も小さくなった。「ニラの天ぷらの煮付け」の材料であるニラの天ぷら自体も食べられなくなってしまったし、「ニラの天ぷらの煮付け」など言わずもがな。そんな料理を懐かしく思いながら、この料理にまつわる祖父と祖母の不思議な行動が妙に脳裏にこびりついている。祖父と祖母は、どんな事を考えていたんだろうなぁ? 人の生活の匂いと湯気と朝の気配が入り交じった食卓で、僕が茶色く醤油が染み込んでグズグズになった天ぷらを笑顔で頬張っていた間に。

'10 01月16日 (土) 19時55分 : ごめんなさい、情けなくて。

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ちとスイマセン、所用がありますので、更新といただいた反応へのレスがもう少々遅くなります・・・申し訳ないのです。今日の朝も更新しようとしたんですが、「洋式便器の蓋は閉めるべきか、閉めないべきか?」を調べていたら数時間使った挙句に結論が出なかったもので・・・スイマセン。情けない。理由があまりにもショボイ。

というわけで、また明日です。いやー、情けない(涙)

ちなみに現状では、便座問題は以下のような様相になってます。

<閉める派>

  • 閉めるのが常識だ
  • 便座ヒーターの消費電力を抑えるために、閉めるべきだ
  • 匂いを抑えるために、閉めるべきだ

<閉めない派>

  • 中に何かがあったらイヤだから、自分は閉めない
  • 匂いがこもりそうだから、閉めずにおくべきだ
  • 元々はトイレと風呂が同じ部屋にある場合に、便器を椅子として使うために蓋はある。セパレートなら蓋を閉める理由は無い

・・・どっちが正しいんでしょうかね? たくさん調べたんですけど、決定的に「どちらが正しい」という結論はなかなか出ないのです。ちなみに僕は「閉めない派」です。家のトイレには便座ヒーターも無いし、4年に1度ほど会社で「開けたらコンニチワ」現象が発生するので、自分も気をつけようかと。皆さんのご意見募集中です。写真も記事とはまったく関係ないものです、スイマセン・・・