
毎回強烈なリアクションをいただいている面影ラッキーホールを掘り下げるシリーズ3回目の今回は、救いの無さでは指折りの楽曲『俺のせいで甲子園に行けなかった』をご紹介します。間違いなく面影ラッキーホールのマスターピースに数えられるであろう、もう目を覆いたくなるような不幸を歌っています。
『俺のせいで甲子園に行けなかった』
物語は非常にシンプルです。ファンキーでノリの良い曲の上で、こんなストーリーが語られます。
- 主人公は高校球児。チームは甲子園行きを決めていて、愛しの彼女と共に白球を追いかける生活。
- ある日、主人公の彼女は学校帰り、別の高校に通う男に襲われます。
- 彼女が襲われた事実を知った主人公は、襲った男に対して『惚れた女を守るための 男としてあたりまえの』ことをします。
- その復讐は次の朝の新聞記事になり、主人公の通う高校は甲子園に行くことができませんでした。
- 『俺のせいで甲子園に行けなかった』。
以上があらましです。主人公は彼女を守るためのことをしただけだし、彼女は悪としての暴力に晒されただけです。にも関わらず、野球部の監督もナインも実の親までもが彼を非難し、救いが訪れることはありません。一体何が起きたのか? つい先日まで一丸となっていた野球部も家族も、ふと訪れた悪意によってズタズタに切り裂かれ、いまだ悪意は少年の頭の上に不吉な影を落とし続けている・・・
にも関わらず、主人公はこうつぶやくんです。『俺のせいで甲子園に行けなかった』。「俺のせいで」と彼は言います。彼女を守るためにしたこと、でも、あくまで甲子園に行けなかったのは自分の責任だ、と。自分を責める少年の想いが繰り返すまま、曲は終わります。
少年を責める資格
少年には2つの選択肢がありました。
- 彼女を襲った相手に復讐せず、彼女と共にじっと耐える。
- 上の物語の通り、相手に復讐する。
主人公は後者を選び、結果的に悲劇に見舞われました。甲子園行きを決めていた学校にとってはさらなる不幸となり、甲子園は夢と消えました。当然、周囲の人間は少年を責め立てました。
しかし、少年は『惚れた女を守るための 男としてあたりまえの』行動をしたまでたと言います。ここで少年が言う『男としてあたりまえの』行動を少年にさせたものは何でしょう? 少年が復讐をするべきだと判断した行動規範は、誰から教えられたものでしょうか。言うまでもなく、彼を取り囲む社会・・・家族や野球部といったコミュニティでしょう。彼はこれまでの十数年の人生で学んだ良識ある常識に基づき、『あたりまえの』行動をしたんですね。そんな風に少年を育てた社会に属する人間として、彼を責め立てるだけの権利がある人間はいるでしょうか? ましては、少年が復讐しなかった時に生じる彼女との軋轢や、その後の少年が感じ続けるであろう後ろめたさを担保するだけの納得いく説明を、誰が少年に教えることができるでしょう? ・・・そう考えていくと、上の選択肢のいずれを採っても、全員が100%ハッピーになることは無いことが分かります。
彼女を襲った悪意は、性欲という形で人間の底から出てきたもので、しかもそれは「その欲望を達成すれば、誰かが必ず不幸になる」ものです。人間の中からそんな感情が芽生えることが往々にしてあるということは、受け入れようにも受け入れがたい事実ですが、世界はそのように出来ているようです。そんな生身が露出したグロテスクな悪意を前にして、僕たちはただ翻弄され、受け手として流されるしか無いように思えます。人はそれを不幸と呼びます。
悪意が巡る世界
とあるきっかけで生まれた悪意が人々の間を巡り、連鎖していく中で、それぞれの人間は利害関係や想いの中で生きていく様子を描く・・・そんな試みは、例えば村上春樹の「アフターダーク」といった小説であったり、古谷実の「わにとがげぎす」といったマンガで行われているテーマです。通奏低音として「解き放たれた悪意と、悪意に翻弄される無力感」が支配する世界観の中でも、人は逆説的に「悪意と同じように不意に訪れる幸福」を願いながら生きていく。ランダムで暴力的な悪意にさらされた世界であっても、せめて自分の行動規範に向かって恥じない人生を送りたいと願いながら、生きていく。それでも、どうしようもない時も、ある。
先に議論した通り、主人公はどう行動しても悪意を100%排除することはできません。「どうしようもない」状況な訳です。面影ラッキーホールがこの曲で表明する「悪意の前では、論理で考えてもどうしようもないし、そもそもが『どうしようもない』場合もある」という無常な世界観は、ともすれば頭の中の理論だけで「良いものは良い」「悪いものは悪い」と画一的な物事の考え方を持ってしまう僕たちに、別の世界の見方を静かに語りかけているように思えます。
面影ラッキーホールに吉本隆明が見いだしたもの
この曲は1998年のアルバム『代理母』に収録され、「面影ラッキーホールを訊け Vol.1」でご紹介した『パチンコやってる間に産まれて間もない娘を車の中で死なせた・・・夏』の中にライブバージョンとして再録されました。このシングルの歌詞カードの巻末でコメントを寄せているのは、なんと吉本隆明(にわかには信じられないのですが)。戦後日本の思想の巨人と言われる吉本さんが、面影ラッキーホールの曲に対してこのようなコメントを寄せています(未だに本物か疑ってしまっていますが)。
この人はうますぎるほどの物語詩の作り手だ。
私はすぐに少年のころ巷にあふれて
子供ながら唄いまくっていた
悩み忘れんと
貧しきひとはうたう
暗い路地うらに
夜風はすすり泣く
という歌を思い出した。
流石に戦後版だけに底光りが射しかけてくる。
吉本隆明
吉本隆明は、ここで重要な指摘をしているように思われます。それは、本能的に歌を歌う子供たちが気づいている「歌や物語や詩という形でなければ、不幸は表現し得ない」ということではないかと思います。歌や物語や詩は決して論理的なものではなく、実益的なものでもありません。しかしながら、自ら思想家でありながら詩人でもある吉本隆明は、子供が直感的に何かを感じ取っている「不幸を唄う歌」を引用しながら、面影ラッキーホールの詩が到達している「歌や物語や詩だからこそ、不幸を表現できる」点を指摘しているように思われます。
不幸は自然科学では扱えません。ましてや、人間の欲求や怠惰といった高位に複雑化した概念は扱いようがありません。そんな概念を定義した論文なんか、誰が読んでも面白くも役に立ちもしないでしょう。しかし僕らはそんな定義できない感情の中で生きているし、だからこそ人生の中に歌や詩や物語が必要なのだろうと、僕は思います。
さて次回は、救いの無いまま物語が閉じられた今回とは打って変わって、ダメな人間に舞い降りた救いを温かく描く物語『あんなに反対してたお養父さんにビールをつがれて』をご紹介します。泣いちゃいますよ、この歌。




