'10 09月02日 (木) 18時45分 : 地下鉄はどこから入れたのか? 八戸版

「地下鉄はどこからいれたんでしょうね?」なんて冗談がありますが、上の写真の左の車、左は塀だし右は車だし、どうやって出すんでしょうか...
そんな事は放っておいて(きっと考えがあるのでしょうし)、今日はこちらの動画をご覧下さい。日体大の皆さんによる「集団行動」です。9分というちょっと長めの時間ですが...後悔しないと思いますよ!
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'10 08月30日 (月) 23時26分 : 雲の屁理屈

水玉の核を形成するチリの量だとか、温度だとか風の量とか向きとか...要素は色々ありますが、煎じ詰めて言えば、僕らが雲を眺めるというのは「空中の水滴の分布を見てる」と表現できます。水滴が少ないところは晴れに見えて、水滴が多いところには雲があるように見える。けど、飛行機で雲の中を突っ切るとよくわかりますが、雲の中って単純に視界が悪いだけで、霧の中のようです。
水滴が多いか少ないか、それだけの差で「晴れ空の青」と「雲の白」の違いが生まれます。
でも、繰り返しますけど、青と白...雲の有り無しの差は、あくまで相対的な水滴の量に由来します。どんなに晴れている空にだってどこかには(理論的に)水滴は存在するし、どれだけ厚い雲の中にだってたまたま水滴の無い空間は(理論的に)存在します。つまり、晴れ空という現象も、雲という現象も、中身は結局「水滴を微妙に含んだ空間」である事では共通してる訳です。
そういう視点で見てみると、1つ1つの雲は独立しているようで...実はつながっている、と言えます。僕らの目には「晴れ空の青」と「雲の白」とハッキリ違う色に見えていても、実は水滴の白が濃いか薄いかだけの差なんですから。
でもでも、やっぱり繰り返しますけど、僕らの目には青と白、くっきり違う色のように見えてしまいます。僕らの見ている雲はすべてつながっていると言えるのに、僕らの意識は違う色のように感じるわけです。
...え? いい加減理屈っぽくて聞いてられない?
スイマセン、その通りでございます。とにもかくにも今日の写真は、美しい八戸の海辺の空でございます。何が言いたかったかといいますと、散り散りの雲でも実はつながってるから寂しくないって思いながら写真を眺めると、感じるところがあるかもしれませんよ、ということなんでございます、ハイ。
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'10 08月30日 (月) 00時05分 : 惜しまずの草原

自然は魅力を出し惜しみしません。というか、そもそも「惜しむ」という概念がありません。「今日はちょっと青空の色をくすませてみようかしら」なんてイジワルなこと、空は思いません。ココロが無いから惜しむことも無い、と言えばニベも無いんですが、でも実はそれってスゲェ事でもあると思います。僕ら、ついつい何かしら小さなものを惜しむことが多いですからねー。
さて、ある人が言いました。
本当に魅力がある人は、魅力が知られることや知らしめることを惜しまない人だ。本当は自分には魅力があるけど惜しんで出していないとか、恥ずかしいから出していないとか、次のステップへ成長するために敢えて出さないとかいう人には、魅力なんて無い。
惜しまずに出すことは、魅力とほぼ同義だからだ。
ふむ。人を惹きつける魅力という掴み所のない能力は、実は「惜しまずに出す」ことによって裏打ちされている、という主張です。「惜しまずに出す」は、素直とか率直とか自然体といった表現に言い換えても良いかもしれません。
この主張は仮説の域を出ていません。しかし...僕は割とピンと来るんです、コレ。
なんというか、僕は人生を出し惜しみたくないんだと思います。僕自身の人生を出し惜しんでいたら、あっという間に終わってしまうように思うからです。すべての生命力を尽くして茂る草木でさえ枯れて死ぬというのに、もし僕が人生を惜しんでいたら、何もできないのではないか? なんて、思うんですね。
もし本当に、出し惜しみしないという姿勢が魅力を産むのだとしたら...自分自身から魅力が生まれる瞬間の感触を確かめることが出来たなら...よろこんでもらえるのなら。惜しまずに生きる草原に落ちる自分の影を見ながら、心のなかに芽生えた仮定形の願いたちが風に揺れるのを、感じたんです。
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'10 08月27日 (金) 19時59分 : 横から風が吹く時は

先日職場でiPadをいじってると、「成功者の失敗」みたいなテーマの本がpdf化されて入っていた。中を見ると、独立起業した人が遭遇する災難がズラリと書いてあって、ひやーオソロシイものじゃわい...と、アゴをスリスリしながら読み入ってしまいました。
まっすぐ前に力強く歩いていても、横風ひとつでグラついてしまうかもしれないのだな。
港町八戸の流通を支える八戸大橋を歩いていると、海からの横風が強く、前を向いて歩けないこともしばしば。でも、風に吹かれるままに目線を陸側に向けると、海に集った人々の作り上げた町並みが広がっています。新しい被写体を求めて前へ前へと進んでいく中で見落としていたやさしい風景に、横風によって気付かされるんですね。
横風が吹いた時は一旦立ち止まって目線を変えれば良いのではないか。そんな予想を、八戸大橋を歩きながら感じたんです。
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'10 08月26日 (木) 21時03分 : 期待とは、あたたかい予想

僕は小さい頃から、期待をコトバとして聞かされた記憶がほとんど無い。家族全員がシャイだったから(当時はそれにも気付かなかった)、期待に含まれている「実現しろよ、良いことしろよ!」という押し付け感を嫌っていたのかもしれない。食べ物の好き嫌いがあっても、靴ひもが結べなくても、クロールで25メートル泳げなくても、叱られたことさえあれど、期待された事が...無い。
これは良いことなのかなあ、よく分からないけれど。
唯一、酔っ払ったイトコのオジサンが、何か頭よさげなことをしたであろう僕に対して「末は博士か大臣かだな、ハハハ」と言ったのだけは憶えている。そもそも博士も大臣もよく分からなかったけど、悪い気分はしなかった。
でも、オトナになって色々な人の話を聞くと、案外「親から期待ばかりされて辛かった」という人が多くて、正直面食らってしまった。そんな人たちの感じたことをシンプルにまとめると、親からの期待が一種のイヤミのように聞こえたそうだ。「お前には出来ない事は分かってるけど、親の体裁があるからとりあえず『いつかは出来る』って言ってるだけさ、フン」なんて具合に解釈してしまうらしい。そのイラ立ちに、乱暴な態度を隠さずに自分の部屋に閉じこもってしまう事があったと、ある知人は言う。そんな記憶があるからこそ、今でも人から期待されるのはイヤだと、と。
うーむ。さすがにこれは、ちょっとさびしい感じもするけれど、受け取り方は人それぞれだから、仕方が無いのかもしれない。
僕は幸いなことに、期待されることをイヤミと感じることも無いし、今も誰かに期待されると、ワクワクしてしまう。僕にとっての期待は予想の一種みたいなもので、人から期待されても「お前には出来る可能性が十分にある」と言われているように聞こえる。期待とは、あたたかい予想のようなものだと感じる。
でも...世間では、期待をネガティブに受け取る人も多いようだ。となれば、これまでの僕はたくさんの人に期待を込めた発言をすることで、音も無しに傷つけてしまっていたのかもしれない。
車窓の夕暮れを眺めながら、そんな事を一人思う。僕がこれまで誰かを傷つけてきたことをすべて把握することは出来ないのと同じように、夕闇に紛れている色をすべて数え上げることができないだろうのに、それでも僕の目は夕闇の中を彷徨う。僕は僕自身に期待している、夕闇の色をすべて知る事は可能かもしれないと。
夕日はあくまでもあたたかいけれど、今にも消え入りそうだ。
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